辛酸なめ子の着物のけはひ 『おはん』宇野千代

『おはん』 宇野千代 妻と愛人、2人の女に惹かれる1人の男。人を愛することの悲しさと難しさ、そこに営まれる情痴の哀愁、あさましさ を、美しい上方言葉で描き、 幽艶な幻想世界を築いて絶賛を集めた宇野千代の代表作。

 宇野千代が十年もの歳月をかけて書いた渾身(こんしん)の小説『おはん』。映画化もされている不朽の名作です。元夫、幸吉の懺悔(ざんげ)的な語りで話は進んでいきます。幸吉はジゴロ的な男性で、おはんと結婚していたのが芸者のおかよといい仲になり、彼女に半分養ってもらいながら古物商を

営んでいます。おはんは「人にもの問われても、ろくに返答(へんと)もでけんような穏当な女で、おとなしく身を引いたのですが、それから七年、偶然に幸吉はおはんと遭遇。白い浴ゆ かた 衣姿で、変わらずきめの細かい肌をしていて、幸吉は心惹(ひ)かれました。そして予想通り何かが始まってしまいます……。

 自分の行いを反省しているのか、幸吉の語り口調は低姿勢を通り越して自虐的。「まァ言うたら女(おなご)に食わしてもろうてる、しがない男でござります」「得手勝手な男の阿呆(あほう)な繰り言」「犬畜生の姿して生きてる」「愚かな心がつのりましてなァ」「お話し申すも愚かしいことばかりでござります」「この世にまたとない阿呆な男」といった調子で、こんなに重ね重ね言われると、謙虚で悪い人ではないのでは? と読者まで惑わされてしまいそうで危険です。優柔不断で自分勝手な幸吉は、嫌われたくなくて、今一緒に暮らしているおかよにも、久しぶりに会ったおはんにも、その場しのぎにいい顔を見せています。おかよが仕事に出かけた隙におはんを招きいれ、ついに一線を越えてしまいます。その直後、おかよが戻ってきたり、寿命が縮まりそうなニアミスもありますが、だらだらと逢瀬(おうせ)を続けます。別れた直後に生まれたおはんと幸吉の息子、悟と会って、またおはんと所帯を持ちたいという思いがわいてきた幸吉。おかよに何も言わないまま、おはんと悟と一緒に新居に引っ越す約束をしてしまいます。おかよが恐くて言い出せなかったそうですが……。たしかにおかよの激しい性格は随所に現れていて、幸吉より一つ上の三十三歳。略奪愛をしておきながら、出て行ったおはんが勝手に損しただけと言い放ち、性欲旺盛で幸吉に「早う寝よう」と迫ったり、強気でアグレッシブです。それぞれ魅力的なおかよとおはん、二人がなぜダメ男の幸吉に惹かれるのかが謎です……。映画では石坂浩二が演じていましたが、けだるいフェロモンを漂わせたイケメンなのでしょうか。

 さらに幸吉は、近所の「おばはん」に何かと協力してもらっています。古物商の裏手のおばはんに、おはんとの密会場所にするため家を空けてもらったり、おはんの家の近所のおばはんには、家探しや引っ越しの手伝いもしてもらっていました。熟女転がしもうまい女たらしです。女運に恵まれすぎたため、調子に乗って、自分の首を絞める事態に……。結局いろいろあっておはんとは一緒になれず、おかよのもとに戻るのですが、二人とも変わらず幸吉のことが好き、という奇特な状態に。身近にいたら危険な魔性の男性、幸吉は、作者が十年かけて心の中で育てた魔物のようです 

 

(イラスト・文)辛酸なめ子 

 

しんさん・なめこ 
漫画家、コラムニスト。武蔵野美術大学短期大学部デザイン科グラフィックデザイン専攻卒業。アイドル観察からスピリチュアルまで幅広く取材し、執筆。『辛酸なめ子の世界恋愛文学全集』(祥伝社)、『辛酸なめ子の現代社会学』(幻冬舎文庫)ほか、著書多数。