辛酸なめ子の着物のけはひ 『蒲団・重右衛門の最後』田山花袋

『蒲団・重右衛門の最後』田山花袋

 自然主義文学の代表的作品で、私小説としても話題を集めた『蒲団』。高校時代の現国の授業で先生があらすじを説明し、気持ち悪いという声が上がったのを覚えています。

「語り合う胸の轟とどろき、相見る眼の光、その底には確かに凄まじい暴風(あらし)が潜んでいたのである」。主人公の竹中時雄は、弟子の芳子との関係を、両思いであったかのように回想します。しかし凄じい暴風が吹き荒れていたのは時雄の心だけかもしれません……。

 旧式の丸髷(まるまげ)で地味で温順な細君に内心不服だった時雄の前に現れた美しい門下生、芳子。「流行を趁った美しい帯をしめて、すっきりとした立姿」が人目を惹きます。ある日、風呂上がりの芳子は艶(なま)めかしい様子で、嬌態(きょうたい)を呈した……と時雄には見えました。小説家の妄想力が現れています。

 しかし芳子に田中という同年代の恋人ができ、一緒に京都に行ったと知って、時雄の心は乱れます。今まで二回も機会があったのに、別の男に奪われたと、「妬みと惜しみと悔恨(くやみ)との念が一緒になって旋風のように頭脳(あたま)の中を回転」。下心までさらけ出すとはさすが「自然主義文学」の先駆け。時雄は酒浸りになり、肴(さかな)がまずいとかんしゃくを起こし、子どもの尻を乱打。人として最悪な自分の姿も容赦なく描写しています。幼稚な歌を歌いながら、細君が被けた夜着を着たまま厠(かわや)へ……。厠の臭いが蒲団につきそうですが、もしかしたら最後のシーンの伏線なのかもしれません。厠の残り香は時雄の呪いのように漂います。

 芳子からの弁明の手紙の主語が「私共」だったので「何故複数を用いた?」と、煩悶(はんもん)する時雄。芳子の手紙を盗み見し「性慾(せいよく)の痕(あと)が何処(どこか)に顕(あら)われておりはせぬか」と二人の関係を妄想。田中が上京したと知り、嫉妬にかられる時雄に、細君は、芳子が田中のために着物を縫っていると伝えて火に油を注ぎます。

 二人の恋の「温情の保護者」になろうとしながらも、ついに耐えかねて芳子の実家に報告。芳子の父親が「煮えきらない男ですわい」「小細工で、小理窟(こりくつ)で」と田中を批判する言葉も書き記し、現実の人間関係にも影響を及ぼしそうです。芳子の態度に、田中とは既に深い関係だと察した時雄は「自分も大胆に手を出して、性慾の満足を買えば好(よ)かった」と悶(もだ)えます。たびたび出てくる時雄の悲願。一番強く伝わってくるメッセージです。芳子は失意のまま父親に連れられて神戸に帰ることに。全編、芳子が嘆き哀しむ姿ばかり描写していて、小説の中で自分が優位に立って屈服させようとしているかのようです。

 時雄は、時空を超えて本懐を遂げようとしたのでしょうか。芳子の部屋の襖(ふすま)を開けて、彼女が常に用いていた蒲団の匂いを嗅ぎます。蒲団を敷いて、夜着を被け「冷めたい汚れた天鵞絨(びろうど)の襟(えり)に顔を埋めて泣いた」時雄の性慾と悲哀と絶望が渦巻くラストシーン。脳内恋愛と、同じ蒲団で疑似ベッドインしかできなかった時雄。でも、この小説を後日読んだ現実の女弟子や読者が気持ち悪がることで興奮したのかもしれず、全てはプレイのようで、天才と変態は紙一重です。

しんさん・なめこ東京生まれ、埼玉育ち。漫画家、コラムニスト。武蔵野美術大学短期大学部デザイン科グラフィックデザイン専攻卒業。なめ子さんがクンクンしてしまうのは銀行。「ATMで、ほのかに漂うお札の匂いを吸い込んでしまう」のだとか。

文、イラスト=辛酸なめ子 撮影=中林正二郎(snow) 選=澁谷麻美(BIRD LABEL)

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