最終回 埴輪(はにわ)挂甲(けいこう)の武人

最終回 埴輪(はにわ)挂甲(けいこう)の武人

 《埴輪(はにわ)挂甲(けいこう)の武人》が出土した群馬県では、4世紀前半に県内で初めてとなる全長約130mの前方後円墳が、現在の前橋市広瀬町に築かれた。前方後円という特徴的な墳丘のかたちは、最初にそれを生み出した畿内のヤマト王権と、政治的な連合を結んでいることの証。墳丘の大きさや副葬品の質は、そのまま葬られた首長の政治・軍事・経済・外交にわたる実力の指標であった。こうした巨大前方後円墳のほとんどは奈良盆地を中心に築造されたが、吉備(岡山県)と上毛野(群馬県)には地方でも群を抜いた数の巨大古墳が築かれている。北方世界(後の蝦夷)との境界に位置し、ヤマト王権が北方に進出する際の、人的資源や物資供給の拠点としても重要な地域であった上毛野は、いわば古代東国の首都であったのだ。そして5世紀前半にはついに、東日本最大となる太田天神山古墳(群馬県太田市)が築かれる。全長が210mに達する墳丘からは、上毛野地域全域を掌握する大首長の存在を想像せずにはいられない。

 その大首長に仕え、軍を指揮したのが、この挂甲をまとう武人だったのだろう。「挂甲」とは古代の甲よろいの一種で、革や鉄板の小札を革紐や組み糸で綴じ合わせ、身体を防御する騎兵用の武具のこと。起源はオリエントにあると考えられ、中国では戦国時代以降に発達、5世紀中葉には馬・騎馬術とともに朝鮮半島を経て日本に伝わった。

 ご覧の通り、細部まで粘土で精緻に表現されていることから、埴輪製作を専門とする職人集団が、この地域に拠点を置いていたのではないかと考えられている。頭にかぶった冑には、顔を守る頰当てと後頭部を保護する錣しころが付いており、小さな粘土粒を使って鋲まで再現、鉄板に鋲を打って組み合わせていたことがわかる。甲も小さな鉄板を用いた挂甲で、10カ所に蝶結びが見られるため、要所を紐で結んで着装したのだろう。さらに肩甲や膝甲、籠手(こて) 、臑(すね)当て、沓(くつ)までフルセットをまとう重装備。右手は腰に帯びた大刀に添え、左手に弓を持つ。左手首には弓の弦から手を守る鞆(とも)を巻き、背には鏃(やじり)を上にして矢を収めた靫(ゆき)を背負う。それ以前の鉄板をつないでつくった短い甲(短甲)に比べて動きやすく、6世紀以降、挂甲が防御具の主流となった。その状況は奈良時代まで続き、聖武天皇の遺品を東大寺(正倉院)に納めた折の目録『東大寺献物帳』に記載される「御甲(おんかぶと)壹佰具(ひゃくぐ)」のうち、90具は挂甲だ。そしてこの後、甲冑は平安時代の大鎧(よろい)へと変化していくのである。

 

 

文、選定=橋本麻里

はしもと・まり日本美術を主な領域とするライター、エディター。永青文庫副館長、金沢工業大学客員教授。近著に『かざる日本』(岩波書店)。今秋、金沢21世紀美術館での[世界を変えた書物]展の準備中。

 

 

東京国立博物館創立150年記念  特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」

会場/東京国立博物館 東京都台東区上野公園13-9

会期/2022年10月18日(火)~12月11日(日)

問い合わせ先/☎050-5541-8600(ハローダイヤル)

http://tohaku150th.jp/

※観覧料、開館時間、休館日などの詳細はHPをご確認ください。

 

 

Vol.71はこちら