染め織りペディア9

「銘仙」とおしゃれ心

 江戸から明治へ世は移れど、庶民の装いは相変わらず縞(しま)木綿。手描き友禅の大衆版〝型友禅〟が登場してもなお、染めのおべべは雲の上の存在だった。  そこに登場したのが〝銘仙〟。大胆でカラフル、しかも値頃な織物は、おしゃれ心を疼かせていた女性たちに大歓迎され、大正、昭和初期に大流行したのだ。
 そもそも銘仙は、養蚕地の副産物。出荷できない難あり繭の自家利用が始まりで、茶や紺、グレーの縞や格子といった木綿感覚の地味な織物だった。 「そんな銘仙に変革をもたらしたのが、明治末期に開発されたタテ糸に捺染する新技法です」とは、秩父(ちちぶ)銘仙の織元「新啓(あらげい)織物」の新井教央さん。秩父(埼玉県)は、伊勢崎・桐生(きりゅう)(群馬県)、足利(あしかが)(栃木県)と並ぶ、銘仙の代表的な産地だ。 「タテ糸捺染は型友禅の応用です。型友禅は複数の型紙を使って白生地に文様を多色染めしますが、銘仙は、同様の作業を糸の段階でほどこすんです」  糸の段階で、とは、粗く仮織りしたタテ糸に型紙で文様を捺染すること。このタテ糸を改めて織機に掛け、織り上げるのだ。この際、仮織りしたヨコ糸を外しながら織るため、ほぐし織、と呼ばれる。 「この技法で、友禅染に近い華やかさを織物で表現できるようになったんです」
 着物が日常着の時代、人々は競うように新柄を求め、次々と流行が生まれた。秩父は植物柄、伊勢崎は派手な抽象文様、足利はモダンデザインなど、産地ごとに個性があり、風合いにも工夫を凝らした。  しかし熱狂は戦争により衰え、さらに戦後は急速な洋装化で、日常着の銘仙は過去へ追いやられる。昭和30年頃を境に、各産地は他の織物へと転換、秩父銘仙も、夜具や座布団カバーが主力となった。
 16年前、教央さんが家業を継ごうと考えた時、父の啓一さんは先のない仕事、と難色を示したが、教央さんは屈せず、しかも新たに着尺を織ろうと決意する。 「ほぐし織は日本独特の面白い技法で、これを生かせるのが着物なんです。ヨコ糸の色によってガラリと雰囲気が変わり、角度によっても表情が変化しますしね」  問題は、好景気時に確立した分業体制の崩壊だった。 「すでに捺染工場は1軒だけ。そこも今年、捺染の仕事をやめました」
 大ピンチ! と思いきや、いつか迎えるその日のために、教央さんは捺染の設備を用意していた。今、「新啓織物」では、デザイン、仮織り、型捺染、織りなど主な作業を自前で行っている。元同僚で妻の園恵さんは、教央さんと二人三脚で秩父銘仙に取り組んできた同志だけあり、「捺染が加わり作業は増えましたが、思い描く色が出せるのはうれしいですね」とにっこり。
 2人は銘仙らしさと新しさの間で心揺らしながら、前に進んできた。時代は令和となり、もはや銘仙ブームは遠い昔。過去の焼き直しではない、新時代の秩父銘仙が、今またおしゃれ心に火を灯(とも)す。

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はみだしペディア  2019年10月4日(金)〜6日(日)の3日間、神奈川県・横浜の三溪(さんけい)園で開催される「手仕事に遊ぶ錦秋vol.4」に「新啓織物」も参加します! https://teshigotoniasobukinshu.jimdo.com

 

文=田中敦子 イラスト=なかむらるみ

たなか・あつこ  手仕事の分野で書き手、伝え手として活躍。著書多数、工芸展のプロデュースも。。

 

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