辛酸なめ子の着物のけはひ 『紅花物語』水上 勉

『紅花物語』 水上 勉

「紅は生きものや、赤というもんは女のいのちや」

 木下清太郎は、女性の唇を彩る紅に命をかけていました。丁稚として迎え入れた玉吉を養子にし、紅花農家のある最も 上がみから京都に嫁に来た玉吉の妻、とくと三人で、紅造りに励む日々。大正から昭和初期の化粧品文化を知る意味でも興味深い小説です(例えば、「顔師」というのはメイクアップアーティストの呼び名でした)。「紅造りの鬼」清太郎は、おとくの唇に試作品を塗って色と質感を確かめます。清太郎の「いやらしい眼め」に動揺を隠せないとく。「お前は家内にまけん……かたちのええ口しとる」「わいがこわいてか……わいはお前に何もせんがな」。まじめで陰気な清太郎は一線を越えることなく、「女のほんとうの色気というもんは、真紅やないとあかんねや。緋ぢりめんの赤襦袢はええもんやで」といった役に立つ助言をして、その後体調を崩し、天に召されます。とくの唇に執心していたのは、最後の生命力のほとばしりだったのでしょうか。


 紅造りを継いだ玉吉は、芸妓の踊りの舞台を観て紅を研究したり、芸妓さんの会話を聴いたりして「玉吉紅」の改良につとめます。舞台の楽屋で顔師や芸妓に無料で試作品を渡して使ってもらうという、今でいうインフルエンサーに宣伝してもらう手法など、玉吉はなかなかのやり手です。「もち紅」「とのこ紅」などの新製品を展開。このまま、夫婦二人の紅造りの良い話で終わってしまうのかと思ったら、後半に玉吉は運命の女性と遭遇。


 業界の懇親会で出会った秋子は、先ぽん斗と町「井雪」の女中でした。華やかな芸妓と違い、うす紫のつむぎに朱格子の入った地味な着物姿で、薄幸感が漂う美女。玉吉と故郷が近く、父母もいない身の上の秋子に玉吉は興味を持ちます。「真面目な気質であり、働き者であり、愛妻家」だった玉吉。そんな人が一回色恋にはまると大変なことに……。秋子はその後、叔父の借金を返すため、花街から遊郭に移ってしまいます。まじめな玉吉は、遊郭に秋子を訪ねますが、最初のうちは会話だけで何もせず、両親のいない秋子の弟、勇を丁稚として雇う約束をしたり、基本的にいい人です。夫に疑いを抱きながらも紅造りを献身的に手伝うとく、そして丁稚に入ってまじめに働く勇、運命に翻ほん弄ろうされる秋子、など、登場人物は誰も悪くなくて基本ピュアな人々です。だからこそ、紅に染まるように欲望に染まりやすいのかもしれません……。


 読者をじらしつつ終盤で玉吉は秋子と深い関係になり、勇にもとくにもバレてしまいますが、「茶屋あそびをすることによって、玉吉は、女の頰や口につける紅を、実際に研究することができた」と、自分を納得させてました。とくと勇の関係も発展しますが、結局、男たちには召集令状が来てしまい、とくはひとり紅造りに励むことに。「紅はクスリ」と清太郎は言っていましたが、そんな健康効果か、とくは長生きしたようです。男たちの思い出で染まった心の奥の妖あやしい色は、紅のように消えることなく、化粧以上の血色で顔を火照らせてくれることでしょう……。

しんさん・なめこ 東京都生まれ、埼玉県育ち。漫画家、コラムニスト。武蔵野美術大学短期大学部デザイン科グラフィックデザイン専攻卒業。近著に、『ヌルラン』(太田出版)、『タピオカミルクティーで死にかけた土曜日の午後』(PHP研究所)、『スピリチュアル系のトリセツ』(平凡社)、『愛すべき音大生の生態』(PHP研究所)などがある。

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