辛酸なめ子の着物のけはひ 『武蔵野夫人』大岡昇平

『武蔵野夫人』大岡昇平

貞淑なのか不貞なのか、昭和のモラルがわからなくなる大岡昇平の『武蔵野夫人』。舞台は「はけ」と呼ばれる自然豊かな丘陵地。この地の湧き水が小川になって流れていく様子が描写されています。清らかな水は主人公の道子の純粋な心を象徴しているのでしょうか。29歳の道子はフランス文学者で41歳の夫、秋山と二人所帯を営んでいます。近所には道子の従兄(いとこ)でお金持ちの大野と、妻の富子、娘の雪子が暮らしていました。華やかで男好きの富子は、まじめな道子が夫の着物を縫い直す姿を見て内心バカにしていました。富子は媚態(びたい)を振りまき、秋山もほだされて彼女のもとに通うようになります。

そこに、24歳の復員兵で道子の年下の従弟、勉が帰ってきて物語が展開。勉は道子の家に引き取られ、富子の娘の英語の家庭教師として雇われることに。浮気癖のある富子は当然勉に関心を抱き、道子も幼なじみの少年が成長した姿に心惹(ひ)かれるようになります。

あるとき「はけ」の川の水源に興味を持った勉は、道子と一緒に散歩し、ついに湧き水を発見。湧き出る水と若い男女の組み合わせに官能的な伏線を感じます。これまで恋を知らなかった道子ですが「恋ヶ窪」という地名を聞いたとき「恋に捉えられた」と体感。

秋山と富子が退廃的な不倫にハマっていくのと対照的に、道子と勉の関係はギリギリ純愛でした。既婚者として恋心を抑えようとする道子。勉は道子のぎこちない態度(お茶を出す時の手の震えなど)に気付き、自分の道子への恋心も自覚。しばらく「両片思い」のようなもどかしい状況が続き、近代文学の大家が恋愛の心理描写に長(た)けていることに驚かされます。大岡昇平も文学界のマドンナ的な魔性の女性と恋愛を繰り広げていたようです。

道子と勉は、秋山と富子が旅行中、狭山に小旅行に出かけます。恋心の象徴なのか、満々と水がたたえられた貯水池を眺めた2人は、人気のない木立で自然と接吻(せっぷん)。「道子は男を嗅いだ」という表現が生々しいですが、目を開けると幼なじみのおとなしい少年、というギャップが彼女を混乱させました。暴風雨に見舞われ、着物も濡(ぬ)れた2人は荒れ果てたホテルに泊まることに。「いつ果てるともない接吻」の後、行為が進みそうになり、道子も口だけで「いけません」と言っている状態でしたが、物音にひるんだ勉は中断し、一線は越えませんでした。自制心と欲望の板挟みになり、家を出て一人暮らしを始めた勉。近くの公園の池の水は黒くよどみ、次第に勉の心も濁っていきました。自暴自棄になって富子を誘ったり、道子が老けたと思ったり……。対照的に道子は秋山に離婚を突き付けられ、家を失いそうになっても、かわいい年下の従弟、勉のために財産を遺(のこ)したいと決死の策を講じます。悲恋が濃厚となり、「はけ」の小川が、道子や勉の涙となって流れていくようです。お金と欲でおかしくなっていく大野と秋山と富子。狭い人間関係がここまでこじれると水に流すことはできません。人間の愚かさを包み込む自然に癒やしを求めたくなる作品です。

しんさん・なめこ 東京生まれ、埼玉育ち。漫画家、コラムニスト。武蔵野美術大学短期大学部デザイン科グラフィックデザイン専攻卒業。『江戸時代のオタクファイル』(淡交社)ほか著書多数。「この夏の出来事ですが、借りているシェア農園で小玉スイカの雄花と雌花の人工授粉に成功し、小さいスイカが実って感動しました」

文、イラスト=辛酸なめ子 撮影=中林正二郎(snow) 選=澁谷麻美(BIRD LABEL)

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