『おーい、応為』の長澤まさみ


もし自分が稀代(きだい)の天才の父のもとに生まれていたら、どんな人生を歩んでいたのか想像したことはありますか。この映画を観ていると、幸田文や漫画『じゃりん子チエ』の主人公の竹本チエを思い出し、「父の娘」という言葉が浮かんでくる。「父の娘」とは、母親の存在が希薄で、父に特別に愛され、父の価値観の強い影響下にある女性を指す。幸田露伴は文に生活の知恵を叩たたき込んだが、この映画の葛飾北斎(永瀬正敏)と、後に父から「応為」という画号を授かるお栄さん(長澤まさみ)は、ふたりして衣食住をそっちのけで、わき目もふらず画業に没頭した。
1820年、当代人気絵師の大横綱・葛飾北斎の仕事場兼住処(すみか)である長屋へ、嫁ぎ先から出戻ったお栄さんが「鉄蔵! 帰ったぞ!」と上がり込む。描き損じの紙と万年床と日用品の地層で足の踏み場もない部屋。「どうした、大きな声を出して。三行半(みくだりはん)でも突きつけられたか」と父は驚かずに言う。お栄さんは、夫の描く斜に構えただけの絵にムカムカしたから正直に言ってやったと息巻く。「やるじゃねえか」という父の言葉に、父娘の似た者同士の関係性が浮かび上がる。
この頃の北斎は、史実によると全国に門下生を抱え、「絵手本」と『北斎漫画』の制作に打ち込んでいた。映画では北斎が客を選ぶ姿から、彼の真剣勝負ぶりが伝わってくる。たとえ城からの遣いでも刀を抜いて気迫を見せるまで引き受けない一方、女性ファンに「一緒に寝てくれたら絵を描いてやる」と約束したことを、事後は一瞬忘れたりする。強烈な父の傍らで、お栄さんは「俺は」と男言葉を使い、着丈の短い男ものの着物を細帯で締めて着流し風に纒(まと)って、刻み煙草(タバコ)と煙管入れを腰に差し、大きく腕を振って歩く。母と会って「女は赤いものを身につけな」と言われたときは、着物ではなく金魚を買う。やがて父・北斎が「そんな絵、どこで覚えた」と認めるほど見事に、絵師・応為の奥行きある画風を完成させた。
息がぴったり合っているはずだったのに、父の何気ない一言にぐらぐら揺さぶられるお栄さん。胸の奥底では何を大事にしているの?。
墨田区の両国界隈(かいわい)で生まれ育ち、生涯で90回も引っ越しをした北斎。すみだ北斎美術館には、長屋の部屋で筆を握る晩年の北斎とお栄さんが実物大で再現されている。生きていると見まごうほど精巧なので、見学の際は腰を抜かさないようお気をつけください。
文、イラスト=浅生ハルミン
あさお・はるみん イラストレーター、エッセイスト。『本の雑誌』(本の雑誌社)に「こけし始めました」、『TASC MONTHLY』(公益財団法人たばこ総合研究センター)に「嗜む街角」を連載中。お栄さんが持っているみたいな煙草入れも集め出すと奥が深そうです。