aiaiときどきブログ

 
 

嘔吐する読書

 
 

第5回 (2008/03/08)


 本をサカナにして語る会、というのをやった。酔狂を気取ったわけではなく、この本を読んで壊れてしまった自分の一部を修復するためにやむにやまれず人に会ったという感じ。一種のセラピーというか。問題の本は、カズオ・イシグロの『充たされざる者』だ。私の師匠の一人がブログで絶賛していたので、おお、これは読まねば……と思って早速とりよせたのだが、読破するまでに3ヶ月弱かかった。一度に10ページ以上読むと乗り物酔いのような状態になるので、なかなか進まない。原書で500ページ(翻訳版だと上下で900ぺージ)あるから、大著ではあるのだけれども、それにしても時間がかかった。読んでいるうちに体重が5キロ落ちて……というのはウソだけど、そのくらいの消耗度。読み終わったのは昨年の大晦日のことだった。ひたすら「この本を来年まで持ち越したくない」という一心で、読み進んだ。読み終わったあと、原稿用紙20枚分くらいの文章を書いた。 内容は、要約とも感想とも文句ともつかないようなぐちゃぐちゃしたもの。誰かに見せることを想定して書いたものでもなく、ただ「出さないと」気持ちがおさまらなかったので、なにかを吐き出すように書いた。

 罪なことに、私はこの本を、まだ読みもしないうちから軽い気持ちで人に薦めてしまっていた。「これ、いいらしいよ」と。自分が読み始めて、「うわー、とんでもないもの薦めちゃったな」と、後悔。薦めた以上、ますます途中で放り出すわけにはいかなくなった。読み終わってからおそるおそる友人に電話してみたら、彼女も大晦日まで読んでいたという。「この本は今年限りにしたいと心から思ったよ」。同感だ。私もあのような本だとは思わなかった、安易に薦めてゴメンナサイ。そう陳謝した後、この本がいかに「ムカムカする」性格のものであるか、主人公がいかに優柔不断で偽善的か、登場人物がいかに身勝手で、話の展開がいかに支離滅裂か、そしてイシグロ文学はいかにダークか……という話でひとしきりもりあがり、少し気が晴れた。

 それでもなにか癒されないものが残った。涙が溢れて仕方がありませんでした、という類の感動でもなければ、血湧き肉踊るような興奮でもなく、超絶的文章表現から受ける小気味よい刺激でもなく、なんかこう、説明の着かない気持ちの悪さがいつまでも残る読書体験。タイトルの『充たされざる者』というのは、この本を最後まで読んでしまった私のことだろう。なぜ途中でやめなかったのかが不思議なくらいだ。イシグロの筆力……といえばそれまでなのだろうが、「わけのわからなさ、気持ちの悪さ」にとまどいながらもしだいに執着していく人間の業みたいなものを感じてしまった。

 本の内容は、ある音楽家が演奏旅行で訪れた町で遭遇するさまざまな出来事、とだけ言っておけば十分だろう。この本においては、話の筋は大した意味を持たない。登場人物の大半は、上品で良心的な人々だ。その人たちが織り成す物語は、エログロとは無縁でありながら、読む者の心をザラつかせる。自己と他者、偽善と善意、反発と従順、過去と未来、此処と彼処、期待と諦念、現実と幻想。それらはことごとく表裏一体であるということが、このいびつな物語の中から浮かび上がってくると同時に、ふだんは押し込めている潜在的不安が顕在化してくる悪夢のような本なのだ。

 カフカに親しんでいる人なら、こういう感覚には慣れているのかもしれない。松岡正剛が『誰も知らない世界と日本の間違い』という本のなかで、カフカについてこう書いている。「カフカが描いたことは、『世界とのかかわり』は説明できないということです。『世界の枠組み』なんてあやしいものだということです」。イシグロの後遺症からまだ立ち直っていないときにこの文章に出会い、ひどく納得した。そうだ。私たちはいかに、自己を持った主人公が物理的法則にのっとった世界で、起承転結のある物語を紡ぐという小説のスタイルに慣れきってしまっていることか。カフカは有名な『変身』のほかにも、変てこな話をたくさん書いている。身に覚えがないのに突然逮捕されて裁判にかけられて処刑されてしまう話(『審判』)とか、絶対にたどり着かない目的地を目指して延々と進み続ける話(『城』)とか。私も『審判』を読んでみたが、『充たされざる者』のあとだったせいか、こちらは苦もなく読めた。奇妙にして奇怪で、ありえない展開満載の話だったけど全然オッケー。物語に物語を求めなければ、もっと自由な読書ができる。これは人間同士のつきあいでも同じで、自分と同じ枠組みとか、自分に理解できる物語を相手に求めるからやりきれない気持ちになるわけであって、「世界は私に都合のいいようにできているわけではない」という、ある種の諦めから入れば、たいていのことは「そういうこともあるかもしれん」でやりすごせるような気がする。まあ、そう簡単にはいかないから、各種の修行が存在するのだろう。

 じつは読み終わってから、この本を薦めた人がいる。この人なら大丈夫かもしれない、いやむしろ好きかもしれない、と直感でそう思ったのである。誰にでも薦めることができる本ではないが、自分があれだけ苦労して読んだ本なので、その体験を共有できる人を探していたのかもしれない。忘れた頃にメールが来た。「あまりにハマってしまい、2日間で半分読んでしまったが、読み終わるのはもったいないから前に戻ったりして、ぐずぐず読むようにしむけている……」という内容だった。結局、物語の進行と同じペースで、4日間で読み終えてしまったという。私が悶絶しながら3ヶ月かかったところを、たった4日で読んだというのだから驚いた。私は物語の外側をぐるぐるまわりながら、なんとか中に入ろうとしつつ入りきれなかったのに対し、この友人は、完全に主人公と一体化して「狂人の世界につき合っているうちに、その世界にどっぷり入っていく感覚」を得たという。とはいっても、そこには感動や共感があったわけではなく、読んでいるときは頭の中で釈迦の「一切皆苦」という言葉がぐるぐる巡り、この小説の「胸くそ悪い」リズムに飲み込まれていったのだそうだ。じつに面白い(ここ、「ガリレオ」の湯川先生風にお願いします)。お互い、読み方こそ異なるが、同じ「気持ちの悪い何か」に辿り着いたのである。冒頭の「本をサカナに語る会」で確認したことは、お互い「変なアプリケーション」をインストールされてしまったということ。何か考え始めると、自動的にこの新しいアプリケーションが起動してしまう。それはどんな状態なのかと問われても、読んだ人にしかわからない、としか答えようがない。世の中すべてをイシグロ・フィルターを通して見るようになった自分たちの異常な状況を嘆く一方で、それが奇妙に心地よいという感覚も共有した。しかしこのアプリケーション、どうやったらアンインストールできるのか。

 読書という体験は実に多様だ。仕事においては、最近流行っているフォト・リーディングやレバレッジ・リーディングといった速読系のスキルは非常に役に立つけれども、そういう読み方ができる本は、世の中に存在する本のなかではごく一部にすぎない。人によっては、人生が変わるような読書体験もある。人生が変わらないまでも、非常に強い影響を受ける本もある。それは、読み始めた動機が何であったにしろ、勉強のための読書ではなく、娯楽のための読書でもなく、あるひとつの出会いなのだ。しかし私にとって『充たされざる者』はそういう類の本でさえもなかった。読んだからといって人生は変わらないけど、人生感は変わる、いや、人生感も別にかわらないけど、人生感についての見方が少し変わったかもしれない。もう、自分でも何を言ってるんだか、全然わかりませんね。

 なんというか、カテゴライズすることができない読書体験であった。しいていえば「嘔吐する読書」あるいは「バッド・トリップ・リーディング」。読了直後の原稿用紙20枚書いたのとは別に、またブログでも10枚近く「吐き出して」しまった……。バッド・トリップで思い出したけど、気持ち悪さでいえば阿部和重の『シンセミア』も相当きてるけど、エンディングはむしろ爽快感さえおぼえたので、後には引かなかった。『充たされざる者』も、最後まで読みきった読者には救いがあるのかもしれない、という淡い期待がどこかにあったが、それはみごとに裏切られた。残ったのは、封じ込めていた不安の扉を開け放されたことに対する怒りにも似た感情。それでも読む前と読んだ後を比べると、自分の世界は格段に豊かになった気はしている。

 そんなバッド・トリップ・リーディング。これっぽっちも仕事の役にはたちませんが(むしろ弊害という説も)、こんな世の中だからこそ、あえてお薦めしたいと思います。


※ 最新号『プレジデント』の特集は、
「一流社員が読む本 二流が好む本」です。

 
 

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