ダブルキャリア列伝【6】 丹道夫さん
[第18回] 通信教育から始めて作詞のプロに
ダブルキャリアとは、「複数の仕事をかけ持ちし、多忙だけれども、充実した職業生活を送る」ことを指す言葉である。広い意味でいえば「副業」ということだが、お金儲けがその筆頭動機ではないという点で、あえて「キャリア」という言葉を使っている。この連載では、スーパーなダブルキャリア人たちを取材し、その仕事ぶりを伺っていく。
第6回目は、都内で働くサラリーマン諸兄には特にお馴染み、24時間営業の立ち食いそばチェーン、富士そばを展開するダイタングループの社長、丹道夫さんである。
丹さんは「丹まさと」というペンネームをもつプロの作詞家でもある。八百屋の丁稚から始まり、数え切れないほどの仕事を点々としながら、最後に辿りついた立ち食いそば経営の仕事で成功を収めて一念発起、55歳の時に作詞学校に通い始めた。
1997年、白鳥みずえの「母娘舟」でプロデビュー。その後出したCDは30曲を超えるという。なかでも、三笠優子が歌う「ひとり娘」と同じく島津悦子の「港のかもめ」はともに5万枚を越えるヒット曲になっている。
渋谷駅からほど近い、246号線をちょっと入った桜丘町にある雑居ビルの1室で待っていると、小柄で優しそうな男性が姿を現した。
インタビュー・構成=荻野進介
●おぎの・しんすけ 1966年、埼玉県生まれ。一橋大学法学部卒業。著書に『ダブルキャリア 新しい生き方の提案』(共著、NHK出版、生活人新書、2007年)。
── ご本『らせん階段一代記』を読むと、愛媛の油屋で働いていた10代の頃、演歌をよく聴いていたとあります。そもそも「作詞家になりたい」と思ったのは、いつ頃からでしょうか。
丹 田舎にいた時は、作詞家になろうとか、そのための勉強しようとか、夢にも思いませんでした。作詞家というのは“抜けた”仕事でしょ。そういう職業があることに気づいたのは東京に出て、そば屋を10店舗ぐらいもっていた時だった。
── 富士そばを作られた後ですか。
丹 はい。僕は昭和47年、35歳の時に結婚し、自分が作った詞に曲を付けてもらって、披露宴でプロの歌手に歌ってもらったんです。
妻が千代子で、僕が道夫だから、「千里の道」というタイトル。〈雨に緑が沁みるように、僕の心はあなたに沁みる。船が海に浮くように、僕の心を包んでくれる〉と、そんな感じで作ったんですよ。
そのときに、「自分の好きなことも大事だな」と思って、富士そばが60店舗になったら、作詞の勉強を本格的にやろう、と。それで40店舗くらいになった頃、通信教育の作詞講座を始めたんです。
そのうち、所属していた東京青年会議所を卒業することになった。55歳でした。毎年60名から100名が卒業するんですが、恒例の卒業文集に原稿を書いたんです。卒業して、文集をもらったときに僕の文章がないんです。どうしたんだろう、と思ったら、「丹さん、一番前に出ているよ」って、仲間が言うんです。慶応の文学部を出た人が二番だったかな。ホテルオークラで表彰式があって、帰りのタクシーで運転手さんに言ったら、「それは大変名誉なことだ。今すぐ奥さんに電話しなさい」と言われて、タクシーを止めてもらい、女房に公衆電話から一報を入れたのを憶えています。
なんで一番になれたんだろう、と思って聞いたら、「丹さんの文章は素直だ。他の人は個性が強すぎて作品になっていない」と。それで、「自分にも才能があるのかな」と思って、六本木にある作詞学校に通い始めたんです。
── 作文の内容は詞ではなくて、会議所時代の思い出みたいなものですか。
丹 そうですね。自分の仕事に夢中なあまり、会に出られなくて、ご無沙汰ばかりでした、卒業ということで心苦しくもあるし嬉しくもある、と書いたんです。
── ただそれだけなのに、読む人の心を打ったんですね。
丹 打ったんだろうね。日記を含め、それまで文章なんか書いたことがなかったんだけど。
── そこから本格的に作詞家の道に。
丹 ええ。でも、こんなに難しいものだとは思わなかった。自分が書いたことが、人に通じないのが一番辛かったね。
いろんな文章やフレーズが思い浮かぶんだけど、それを組み立てて書いたら、「わからない」と先生に言われるんです。学校は週に1回です。「自分の好きな題材で、毎回、詞を書いてきなさい」と。書いてきたものを先生が読んでくれるんです。大きな原稿用紙に2枚も書いてくる人がいた。「こんな長い詞、歌えるか!今度書いて来たら引き裂くぞ」と言われても、やっぱり書いてきた。そんな感じで、ほとんどが素人。「みなさんの作品は詞にならない」と先生が嘆いていました。
その先生は神野美伽の「屋形船」を書いた人です。ある日、学校が終わって、先生を「コーヒーでもどうですか」とお誘いしたことがありました。自分があまりに書けないものだから、「作詞家になるには文才がなくちゃ駄目ですか」って聞いたら、「とにかく根性だ」って。根性がないとプロにはなれない。その先生も屋形船一曲で終わったんです。
── 厳しい世界ですね。
丹 そう。僕はその学校の20回生として入ったんですが、年間100名も卒業していくんです。ほとんどが、ライター出身、銀行に勤めているOL、スチュワーデスといった若い人。20回生ということは、2000人が卒業している計算ですが、プロになったのはたった2人しかいないんですよ。作詞は本当に難しい。世の中にこんなに難しいものはないと思った。
── そうですか。経営より?
丹 もう全然。「僕、才能ないのかな」と思って。
── いい作品が書けるようになって、一皮むけたのはいつ頃ですか。
丹 それから10年後ぐらいです。親に反抗する子どもが増えて、社会問題になった時期でした。白鳥みずえという歌手がいて、そういう子を慰めるような詞を書いて、応募したら、通ったんです。「母娘舟(おやこぶね)」という曲でデビュー。忘れもしない平成9年7月21日でした。
── どんな気持ちでしたか?
丹 自分にも多少の才能があるのかな、と思って。
── どういう詞なんですか。
丹 最初の出だしは、〈若いお前がまぶしい、と、恋につまづく私にやさしい母の言葉〉。女の子が恋につまづいたんだけど、お前が若くてまぶしいよと、お母さんが慰めてくれたというフレーズです。
── 最初に、「あなたの詞は独りよがりでわからない」と言われたレベルと比べて、格段にうまくなっていたんでしょうね。
丹 まあ、そうですね。実はその六本木の学校には5、6年通って辞めて、新宿にあった、葦の会という作詞の会に移っていたんです。「宮川としを」という人が先生でした。
デビューして2年後の平成11年に「港のかもめ」という詞を書いたんです。それがシングルA面になった最初の曲でした。
── ご本にありましたが、「ザンブ ザンブと」という印象的なフレーズの詩ですね。こういう印象的なフレーズがある方が受けるんですか。
丹 そうなんです。とても大事なことです。その詞はザンブザンブが効いた。今までない言葉ですよ。
── 確かに新鮮ですね。
丹 レコード会社のディレクターに言わせると、歌のどこかに、そういう新鮮なフレーズが最低一つは欲しいそうです。
(次回に続く)
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