攻める、「烏梅」の守り人

まさに桃源郷、と文人墨客が愛(め)でた奈良の月ヶ瀬梅渓は、烏梅(うばい)用の農園が始まりだった。最盛期は10万本の梅の木、400もの製造所があったという。
烏梅は紅花染めの媒染剤だ。炭粉をまぶして燻蒸した真っ黒い実梅に凝縮されたクエン酸が、紅花の花弁に含まれた優美な赤を引き出し、定着させる。
月ヶ瀬梅渓の原点は、鎌倉時代。「この地の寺に天神社を創建、菅原道真公ゆかりの梅の木を植えたんです」とは、中西謙介さん。日本で唯一、烏梅製造を担う中西家十代目で、烏梅の技と価値を現代に生かすべく奮闘中だ。クラウドファンディングに挑戦して工房でもある「園生(そのお)の森神社」を建立。天神様と、烏梅の恩人・園生姫を祀(まつ)った。
園生姫とは後醍醐天皇の側女(そばめ)で、南北朝の騒乱を逃れて月ヶ瀬に迷い込み、助けてくれた地元の民へのお礼にと、天神社の梅で烏梅の製造法を伝授した人。「当時、紅花染めが盛んな京都で烏梅は高く売れ、渓谷にどんどん梅が植えられました」。紅花の色が息づく小袖や口紅が女性を虜(とりこ)にし、月ヶ瀬を潤わせた。
しかし、その繁栄も明治に入り終息する。安価な合成染料の登場で、植物染めは衰退、烏梅もまた用途を失い、梅林の多くは、桑や茶の畑に転用される。ただし、景勝を守る動きも起こり、月ヶ瀬梅渓として今に伝わる。
そんな中、中西家は「代々、天神さんをお祀りするつもりで、売れても売れなくても梅を焼け、を家訓に続けてきました」。そして戦後は、ただ一軒に。他県の烏梅産地もすでに消滅。中西さんが戻る6年前まで、本物の紅花染めを守るわずか数軒のためだけの製造だった。
「もっと可能性を広げたいと思いました。日本の烏梅は、1300年前に遣隋使により薬として伝わったものなんです」
中西さんは新たな方向へと足を踏み出し、三つの用途で烏梅の展開を考えた。
まずは食。「歴史を踏まえ、烏梅の薬膳茶を提案しました」。応用としてシロップやコーラも製造。ネット配信で烏梅を知る人が増え、カクテルや料理に使うプロも。会社勤務時代に趣味で調理師免許を取得した中西さんは、時に自ら調理して、使い方の提案に勤(いそ)しむ。
媒染剤は、園生の森神社での紅花栽培と紅花染めのワークショップが新機軸。
そして口紅。泥状の紅花液を小皿に固着させ、水を含ませた筆で溶かして使う、そんな江戸の紅皿に挑んでいる。
周囲からは反対や懸念も多かった。が、中西さんは揺るがない。歴史に学び、製法を守り、未来への工夫を少しずつ。口伝の製法、素材、道具、全てが理に適(かな)っている。梅雨時に完熟落ち梅を拾い集め、炭粉をまぶして梅簾(すだれ)に並べ、濡(ぬ)れ筵(むしろ)をかけ、かまどの上で燻蒸し、真夏に天日干し。一つ一つに、先人の知恵と神聖な気配が宿っている、と。攻守の塩梅を見極めながら、中西さんは月ヶ瀬梅渓の原点たる烏梅の未来を拓(ひら)いていく。
文=田中敦子 イラスト=なかむらるみ
たなか・あつこ 手仕事の分野で書き手、伝え手として活躍。工芸展のプロデュースも。烏梅の薬膳茶を、家人は焼酎に合わせたい!と。梅の酸味とモルトウイスキーに通じる燻味、いろいろ応用できそうです。