染め織りペディア18

「赤穂緞通」は時空を超える

兵庫県の播州(ばんしゅう)赤穂(あこう)は、忠臣蔵や塩で知られる風光明媚(めいび)な土地。ここに幻の敷物、赤穂緞通(だんつう)がある。緞通とは中国伝来の敷物の味わいを写した織物のこと。ルーツはペルシャやトルコの毛織り絨毯(じゅうたん)で、中国を経由することにより、ふっくら厚みのある敷物へと変容、日本人の心にフィットする異国情緒を備えた。鍋島緞通、堺(さかい)緞通、そして赤穂緞通は、日本三大緞通と呼ばれ、日本の風土に合った木綿糸を使い、江戸末から近代、大いに生産されたという。

今回、赤穂緞通の若き担い手である阪上梨恵さんを訪ねた。工房には大きな織り機が据えられている。え? これはよくある手織りの高機では。絨毯の機は、竪琴(たてごと)のごとくタテ糸が垂直に張られ、そこに糸を結ぶものと思っていた。

「赤穂緞通が高機なのは、一人の女性が苦心して編み出した技法だからです」

一人の女性とは、赤穂市内の美術商の妻だった児嶋なか。江戸時代の末、中国の万暦氈(ばんれきせん)に魅せられた彼女は、その美の再現を決意する。とはいえ、技法は不明だ。そこで身近にあった高機などで試行錯誤を重ね、明治7(1874)年、実に26年の歳月をかけて完成させる。つまり手探りゆえの高機なのだが、これが独自の特長を実現するのに好都合だった。「地色や文様の糸をタテ糸に括くくることを、赤穂では『はせる』と言いますが、ある程度の長さをはせたら、機に掛けたままで、丹念に毛足をカットしていきます」

特注の握り鋏ばさみによるカット、「摘み」の作業は、安定した水平面で丹念に施してこそ。網利剣や蟹牡丹(かにぼたん)など緞通特有の柄はくっきり輪郭を描き、毛艶も増す。

「でもこれが難しくて、技術を身につけるのに何年もかかってしまいます」

 神戸市出身の阪上さんと赤穂緞通の出合いは約10年前のこと。 「旅行で行った赤穂御崎(みさき)で、立ち寄ったギャラリーに赤穂緞通があったんです」。 このエキゾチックな絨毯が、国内、しかも同じ兵庫の赤穂で、かつて大量に織られたものだったとは。20代後半の阪上さんは、赤穂緞通の織り手になろうと心に決め、人生をシフトしたのだった。

 阪上さんの先生は、赤穂市が開催した「織方技法講習会」の1期生。戦後の高度成長期、手のかかる赤穂緞通は衰退の一途を辿たどり、幻の緞通に。平成に入るや技術継承が急がれた。3期続いた事業で巣立った伝承生により、個人工房が生まれ、今や従事者は20名以上。確かに成果はあったものの、今なお幻の緞通と呼ばれている。それは、たたみ一畳大を織るのにも半年はかかる手作業ゆえだ。

阪上さんは2年前、赤穂御崎に工房を持った。同時に、伝承生の先輩から、古い赤穂緞通の修理と販売も受け継いだ。

 「当時の技術の高さ、素材や染色のよさなどから学ぶことはたくさんあります」

だからこそ、よい糸を昔ながらの植物染めで。遠近の先輩に学ぶ阪上さんは、赤穂緞通の未来へ眼まな差ざしを向けている

たなか・あつこ 手仕事の分野で書き手、伝え手として活躍。工芸展のプロデュースも。新著『父のおじさん 作家・尾崎一雄と父の不思議な関係』(里文出版)が2021年12月上旬に刊行予定。

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