ダブルキャリア列伝【3】 海原純子さん

[第10回] ストレスで顔面神経麻痺になりました

 
 
2008年7月5日
 
 

海原純子

うみはら・じゅんこ
1976年東京慈恵会医科大学卒業。白鴎大学教授。医学博士。2007年厚生労働省「健康大使」に就任。心療内科医として心の問題をテーマに全国で講演活動を行うとともに、テレビ・ラジオ・新聞など幅広く活動中。現在、読売新聞「人生案内」回答者、毎日新聞・日曜版「心のサプリ」、日経ホーム出版『日経ウーマン』連載執筆。近著に『こころの格差社会―ぬけがけと嫉妬の現代日本人』(角川書店)『企業こころの危機管理』(文藝春秋)『わたしを磨く仕事の作法』(成美堂出版)『一日の終わりの言葉』(PHP研究所)などがある。1999年より、20年間休止していた歌手活動を再開。全国でコンサートを行っている。



●ライブ情報
8月1日(金)六本木JAZZHOUSE「Alfie
[出演] 海原純子(Vo) 山本剛(P) 大隅寿男(D) 香川裕史(B)
1stステージ/20:00~、2ndステージ/21:30~(入れ替え制)
[予約] TEL.03-3479-2037

 

インタビュー・構成=荻野進介
●おぎの・しんすけ 1966年、埼玉県生まれ。一橋大学法学部卒業。著書に『ダブルキャリア 新しい生き方の提案』(共著、NHK出版、生活人新書)。

 
 


── 海原さんの人生に再び歌が登場するには、どんなきっかけがあったんですか。

海原 もう歌は諦めていたんです。ジャズなんか歌えないし、英語もできない、その他、いろんな壁があると。とにかくクリニックがすごく忙しくなったんです。
 今でも、あんなにいいクリニックはなかったと思う。できる限りの人的な投資をしたんですから。
 今、医療のコミュニケーションがすごく悪いといわれますが、人手をカットしたからです。患者に説明する人がいないでしょ。だけど医師だけでは全部説明しきれないのが実情なんです。
 当時、お金の計算する人が、小さなクリニックなのに2人もいた。1人は予約をとって患者に説明し、もう1人は電話に出る係。栄養士さんも2人、カウンセラーも3人いたの。
 この栄養士さんの方が「合う」とか、あるじゃない。カウンセラーでも「こういう人がいい」ってあるでしょう。堅い感じのカウンセラーと、若い人向きの人と、3人、みんな違うわけ。
 そういう人たちを確保して、働いてもらっているんだから、「いい給料あげなくちゃ」と思ったので、私に入ってくるお金がなくなって、全部経費で出て行く感じ。完全な自転車操業で、ものすごい経営難でした。
 私は夜2時くらいまでいろんなことをやって、時間がなくて、「いったい何のためにやっているのかな」って思っていました。最終的にクレームと責任は全部、自分に来るし、それを分かち合ってくれる人はいない。ヘトヘトになって、体調も悪くなるわけ。
 帯状疱疹が出ても休めないから薬を飲んで、注射を打って、座薬を入れて、無理をしながらやっていました。
 1995年に神戸の震災があり、ちょうど高速道路がつぶれたところからすぐのところに夫の実家があって、半分つぶれちゃったんです。お見舞いや手伝いに行かなくちゃならなかったんですが、クリニックが忙しいから、とてもできない。でも、私もヘトヘトだから、「休診にして手伝おうか」と思ったんです。そうなると、患者さんを移さなければなりませんから、私の知り合いのクリニックに皆さんの紹介状を書いたんです。
 結構ショックだったんですが、夫の実家がつぶれてバタバタしているとき、「大丈夫ですか」と言ってくれた患者さんが2人しかいなかったの。

── 何十人もおられる中で、ですよね。

海原 100人以上の中で2人。あとの人は「クリニックをやめられたら困ります。私たちはどうなるんでしょう。無責任です」って。今のあなたよりも私の方がずっとヘトヘトよ。私は何のためにクリニックをやってきたのだろう……という感じだった。
 それで休診にしたんですが、1カ月くらいして、体調が悪くなったんです。噛み合わせがうまくいかない感じで、歯医者さんに行ったの。「別に歯は問題ないんですけど」と言われたんですが、そのうち顔も痛くなってきて、どうしても治らない。顔面神経麻痺でした。
 そういう、いろんな不調がワーッと来たんです。今まで抱え込んできたのが全部出てきた感じ。それで2年くらい何もできなかった。
 夫が勤めていたから、家賃を払ってくれて、クリニックの休業保険っていうのに入っていたから、それで生活費を賄っていました。
 そういう病気は、ストレスが原因で起こってくることだから、薬を飲んで治るものではない。「治らないかもしれない」とも思いつつ、自分のことを振り返ってみると、本当に全部抱え込んできた人生でした。「つらい」と言うのが嫌なわけね。人前で愚痴はこぼさない、つらくても絶対に笑っている質で、弱々しいとか、女っぽいというのが嫌い。それで、「私はそういう質だったな。もし治ったら、少しは自分のやりたいようなかたちで、医療も続けていきたいな」と思ったんです。


≪ある雑誌の記事によれば、頭や顔の痛みがひどく、体重は35キロまで落ちた。海原さんはそのインタビューにこう答えている。「そこで私は1回死んだんです」と(『アエラ』2003年8月25日号、「現代の肖像」歌代幸子)。この記事には、仕事だけではなく、幼少時代の親子間の葛藤、結婚生活など、さまざまな苦難を乗り越えてきた海原さんの半生が綴られている。≫


海原 完全には治らないんだけど、1998年くらいからぼちぼち声が出るようになってきたので、「もう1回、クリニックをやろう」と。
 前は検査をやって薬を出してと、全部やっていたんだけど、本当に自分がやりたかったのは、患者さんひとりひとりの深い相談を受けることだったので、それを「やろう」と。スタッフはおかず、カウンセリングだけのクリニックにして、6、7年、やってきました。

── そういう経緯があったのですね。

海原 はい。それと同時に声も出始めたから、「歌もやろうか」と。たまたまNHKのBSで、私の今までを振り返る番組を作ってくれることになったんです。歌うシーンもあるので、「歌ってください」と言われて、「そんな!もう20年もやっていませんよ」と断ったですが、「やらないと、いい映像にならない」と説得されたんです。
「そこまで言うなら、やってみようか」と思って、知り合いのテナーサックスの人と3人くらいで組んでやったの。音はボロボロなんだけど、すごい楽しかった。
 それでも、まだ歌をやり始めようという気にはなれなかったんですが、番組を見ていた知り合いがいて、「歌えるんだったら、やればいいじゃない。私がいいピアノの人を紹介してあげる」と言って、紹介してくれ、一緒にやり始めた。
 その方が「いくら練習しても、ステージをやらなければうまくならない」とおっしゃるので、「じゃあ、やりましょうか」ってぼちぼちやり始めたのが歌の再開でした。

── 最初のステージはどこですか。

海原  今はなくなっちゃった渋谷のジァンジァン。2000年2月です。ピーコさんのシャンソンのコンサートにゲストで出させてもらった。
 その後もシャンソンを長くやっていたのですが、やっぱりジャズのビートが私は好きなので、アルフィー(六本木のジャズクラブ)などでもやるようになったんです。
 メンバーもどんどん入れ替わって、今は本当に最終的なメンバーだと思います。そのひとりが、私が若いころから大好きだったピアノの山本剛さん。雲の上のような人だったので、一緒にできるなんて夢にも思っていなかった。(今度の)8月1日は大隅寿男さんって、ドラムのすてきな方とやります。本当にぜいたくなトリオですごくしあわせです。

── 5月15日の六本木でのライブに行ったのですが、前に陣取っていて、最後に花束を渡された初老の男性がいました。ああいう熱心なファンもいらっしゃる。

海原 けっこうおじいさんとか、おばあさんとか、来てくれるの(笑)。

── 毎回、来ている感じの人ですよね。ああいう方はどうやってファンになるんでしょうか。患者さんだったりするんですか。

海原 患者さんは一人くらいかな。

── じゃあ、大部分は復帰されてからファンになった人。

海原 そうですね。

── それはうれしいですね。病院つながりじゃなくて、純粋に海原さんの歌が好きで観に来られているわけですから。

 

 

 
 
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