ダブルキャリア列伝【3】 海原純子さん

[第9回] 医学生時代、とびこみのオーディションで歌手に

 
 
2008年6月30日
 
 

 ダブルキャリアとは、複数の仕事をかけ持ちし、多忙だけれども、充実した職業生活を送る、そういう行為を指す言葉である。広い意味でいえば「副業」ということだが、小遣い稼ぎ、お金儲けがその筆頭動機ではないという点で、あえて「キャリア」という言葉を使っている。
 ひとつの会社に定年まで勤めるという雇用慣行が崩れる一方、人々が働く期間は明らかに長くなっている。夢を仕事にしたい人、充実したセカンドキャリアを送りたい人、「仕事は遊び、遊びは仕事」だと思う人、そういう人にお勧めしたいのがダブルキャリアだ。
 この連載では、2007月に『ダブルキャリア 新しい生き方の提案』(共著、NHK生活人新書)を上梓した荻野進介が、スーパーなダブルキャリア人たちを取材し、そのきっかけ、仕事ぶり、両立させるノウハウなどを伺っていく。
 第3回目は、日本初の女性クリニックを開設、診療内科医、大学教授、エッセイスト、そして歌手というマルチな才能を発揮しご活躍中の海原純子さんにご登場いただいた。

 インタビューに先立ち、5月15日、六本木のジャズクラブで行われたライブに赴く。30~40席ある客席はほぼ満員だ。歌手=海原純子がステージに現われると、大きな拍手が沸き起こった。有名な「イパネマの女」から始まり、英語の歌、日本語の歌、取り混ぜて10曲あまりを披露。曲の合間に、ちょっとした息継ぎのような小話がはさまる。「風よ雲よ光よ」という印象的なフレーズの曲で、ライブが締め括られた。
 それから約3週間後、被取材者として私の前に現われた海原氏は、思いのほか、小柄だった。ステージというものは人を大きく見せるものなのだろう。そして、ライブの時も、この時も、お医者さんという感じがしなかった。白衣を着ていないからだろうか。いや、理由はそれだけではなさそうだ。


インタビュー・構成=荻野進介
●おぎの・しんすけ 1966年、埼玉県生まれ。一橋大学法学部卒業。著書に『ダブルキャリア 新しい生き方の提案』(共著、NHK出版、生活人新書)。

 
 

海原純子

うみはら・じゅんこ
1976年東京慈恵会医科大学卒業。白鴎大学教授。医学博士。2007年厚生労働省「健康大使」に就任。心療内科医として心の問題をテーマに全国で講演活動を行うとともに、テレビ・ラジオ・新聞など幅広く活動中。現在、読売新聞「人生案内」回答者、毎日新聞・日曜版「心のサプリ」、日経ホーム出版『日経ウーマン』連載執筆。近著に『こころの格差社会―ぬけがけと嫉妬の現代日本人』(角川書店)『企業こころの危機管理』(文藝春秋)『わたしを磨く仕事の作法』(成美堂出版)『一日の終わりの言葉』(PHP研究所)などがある。1999年より、20年間休止していた歌手活動を再開。全国でコンサートを行っている。



●ライブ情報
8月1日(金)六本木JAZZHOUSE「Alfie
[出演] 海原純子(Vo) 山本剛(P) 大隅寿男(D) 香川裕史(B)
1stステージ/20:00~、2ndステージ/21:30~(入れ替え制)
[予約] TEL.03-3479-2037

 
 

── 海原さんは医者でありながら、大学教授もやり、歌も歌い、写真も撮られています。今回はお医者さんとシンガーというところにスポットをあててお話を伺いたいと思います。そもそも医者になられたきっかけを教えて下さい。お父様が耳鼻科のお医者さんでしたね。

海原 ええ。あとは小さいときから「仕事を持つ」「自立するためには生活費を稼がなくちゃいけない」ということが当たり前のことみたいにインプットされていたんです。
 そうすると、「数ある仕事の中で何を選ぶか」という問題になるわけです。小学校5年から女子校に通ったんですが、全然みんなと合わない、意見も違う。可愛らしく取り繕うことが全然できない質で、先生にもあまり好かれなかったので、「一般的な職業は無理だろうな」っていう気がしていた。
 どうも男にも好かれないらしいから(笑)、「可愛げが不要で、それだけやっていればいい、という仕事にしなきゃ駄目だ。医者か、獣医、薬剤師、弁護士かな」と思っていた。本が好きだったから、「小説家になりたい」という気持ちもあったんですが、「食べていけない」みたいなことを言われるから、「国家資格はあった方がいい」と思い、それで「医学部に行こう」と。
 でも、長々と勉強し、浪人するのはいやだった。とにかく「最短距離で入らなくちゃ」と思って、高校2年くらいから、受験勉強を必死にやって受かったという感じでしょうか。

── 一方で歌に代表される音楽もずっとやられてきたのですか。

海原 子供のときから音楽が好きで、小さい頃、バレエをやらせてもらっていたんです。いわゆる創作バレエ。幼稚園から小学校2年くらいまで、歌ったり、踊ったりするのが好きだった。ファッションを取替えては歌ってと一人でやっていたんです。祖母が好きでよく面白がってみてくれました。
 ところが小学3年生になってから、ガラッと環境が変わった。母の様子が変わって、“勉強させよう”モードに入ったの。自分のアイデンティティを娘に託したところがあって、「歌とかバレエなんかとんでもない。とにかく勉強」っていうので、それまで通っていた公立の小学校から女子校に転校。

── 横浜の雙葉ですね。

海原 そう、5年から変わったのね。その前に雙葉に行くんだからって、自分の好きなものは全部やめさせられたの。
 書道も好きだったんです。墨をすって書くの。とくに大きな字でワーッと書くのが大好きだったんだけど、そういうものは全部止めさせられちゃって、以来、音楽はとにかく関係ないっていう感じにして。

── どんな生徒だったのですか。

海原 すっごい変な子。論理が破綻しているのがいやだった。宗教の時間というのがあったんです。要するに「セックスはいけません。男の子とつきあってもいけません」という学校なんです。そこで、先生に、「聖書には『生めよ、増やせよ、地に満ちよ』とありますが、これはどういうことなんでしょうか」と言ったわけ。先生は絶句したまんま、バッテン印が、バツバツバツ(笑)。
 シニカルにものを見ていました。「先生だから偉い」「親だから偉い」という具合では絶対なかった。「人間としてどうなのか」をシビアに見ていたの、子供ながら。かわいくないね、こういう子は。

── 日本の学校では苦労してしまいますね。

海原 本当はその頃、アメリカに行きたかったですよ。(音楽の趣味が復活したのは)大学に入ってからです。みんな、まわりがジャズを聴いて、レコードを借りたりして、「いいな」って思って、自分もコードを勉強したくて、新宿にある音楽教室で、ピアノのコードを教えてもらっていた。
 そこで、何々募集といった、いろんな情報が入るんです。それで、「歌手募集」とあったから、新宿のクラブにそのままオーディションを受けに行っちゃったという。

── 歌舞伎町のカドゥー。

海原 そうです。ちょうど父も病気していたから、アルバイトもしなくちゃいけなかったんです。「音楽教室で習っているよりはバイトになった方がいいかな」と。
 本当にレパートリーがなくて、2曲分の歌詞を覚えて、あわてて行って、オーディション受け、幸い受かったので、そこに潜り込んだんです(笑)。あとはもう実地あるのみ。勉強しながら、ずっと歌っていたの。

── 給料は時給制でしたか。

海原 最初はワンナイト3000円で、すぐ4000円になったの。あとで8000円になった。今から30年くらい前で一日8000円。そのバイト代ですごく豊かに暮らせたの。
 でも勤務は月曜から金曜まで毎日だったから、他のことは何にもできなかった。旅行も行けないし、運転免許をとる時間もない。いわゆる大学生がやることは全然やらないで、とにかく学校と歌だけ(笑)。


── お金が上がったっていうのはそれだけ人気があったということですね。

海原 お客さんは結構来ていました。贅沢で、いい店でした。CDもインターネットもなくて、今よりもライブの地位が高い時代、娯楽といえば映画とライブくらいしかない。その場所もジャズクラブじゃなくて、高級クラブなの。ブランデーのいいのが置いてあったり、レミーマルタンが置いてあったりとか。お客さんも、本当にいい人たちが来ていました。


── そこで旦那さんとも出会われた。

海原 そうです。ちょうど歌手を探していたんで、そこで出会ったんです。


── そして大学を出て、国家試験を受けられ合格されたと。

海原 そうです。一枚だけ、フジテレビのお昼のドラマの主題歌をフォノグラムからレコードで出しました。今、NHKがお昼のドラマをやっているけど、そのころは民放もやっていたんですよ。柏木由紀子さんと荻島真一さんが出ていた15分くらいのお昼のドラマです。
 ちょうど研修医になりたての頃だった。当直があるとクラブでも歌えないし、すぐ結婚したので、夫とは仕事をやりにくいということもあって、「歌をやめた方がいいかな」と。医学をやっていると時間がない。趣味でやればいいんだけど、趣味の時間もまったくなかったの。
 トレーニングする時間もないし、中途半端にやるのは嫌だったから、全部止めて、「以後、音楽とは一切かかわりがないようにしよう」と。それで、医学だけをずっとやっていたんです。


── それは何年ごろですか。

海原 1977年くらいですね。

── そのあと、クリニックを開設された。

海原 そう。しばらく大学にいて、学位をとったりして、あとは講師をやりました。講師といっても、研究業務だけにしてもらったので、教育はなし。免疫の研究をずっとやっていて、そのときにあまりにもミクロの世界だったので、「もうちょっとトータルな臨床をやりたい」と思って、直属の上司に相談をした。その人はすごくおもしろいキャリアで、ずっと婦人科の臨床をやっていて、研究をやりたくて病理に来た人だったの。
 「昼間は大学で研究して、夜だけクリニックをやったら」みたいな話になり、青山でクリニックをスタートさせたんです。
 ただ、とにかくお金がないんですよ。クリニックを開くのって、億単位でお金がいる。そんなお金、とてもないし、貯金もないから、ゆとりもない。全部借金にしなくちゃいけないので、普通のビルは高くて借りられない。
 たまたま小さなビルを見つけたら、礼金とか敷金が普通のマンションと同じだった。それでお金を借りて、内装は夫の友達にやってもらって、機械は全部リースというかたちでスタートしたんです。

── 昼は研究で夜は診療という、いわゆるダブルキャリアですね。大変だったと思います。

海原 大変でした。今はレディースクリニックとか予防医学ってあるけど、当時は全然、そういう概念がない。だから、検診もするし相談にものりますっていうと、何をやっているか、わからないわけ。「何科って名乗ってくれ」って言われるんだけど、「科」って言えない。その人全体を見たいと思っていたから。
 何をやっているかわからないから患者さんは来ない。収入がないのに、看護婦さんの給料とリースのお金ばかりがどんどん出て行って、あと3カ月分くらいしかお金がなくなって、これで駄目だったら、クローズするしかないと(笑)。
 たまたまマンションのローンを組んでいたので、頭金が200万くらい返ってくるから、「売ろう」みたいな話をしていたら、毎日や朝日が記事を書いてくれて、それからだんだん患者さんが増えてきた。

 

 
 

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