ダブルキャリア列伝【8】 しりあがり寿さん

[第29回] 仏のままで死ぬか鬼になって生きるか

 
 
2009年6月22日
 
 

 

── しりあがりさんのファンはどういう人なんですか。

しりあがり いやぁ、見たことない。変な人じゃないですかね。

── うちの娘が8歳なんですけど、『方舟』を見たら泣いてしまいました。あれは怖いです。

しりあがり 申し訳ない。

── いやいや。でも、世の中に幻想を抱かず生きられるかもしれないですね。

しりあがり 両方とも必要ですよ。単純に元気が出るものを見たら、時にはああいうものを見たりとかね。

── 日本の今の子どもはすごく大事にされて、「夢は思えばかなう」みたいな甘言を20年もいわれて育ちます。でも、夢は当然かなわなくて、就職氷河期で仕事がない、「裏切られた」と思って、世間に対して恨みを抱くロスジェネ世代が生まれてきたと思うんです。自分も確かに甘やかされて育ちましたが、今ほど「夢のふりかけ」はなかったと思います。子どもに対する大人からのメッセージと現実のギャップは昔より大きいと思うんですが。

しりあがり 社会のルールを変えないと駄目な感じがしますね。勝つ人が多いルールがいいルール。今は勝つ人が少なすぎる。大金持ちの人ですら、自分のことを「勝った」と思っていない。
 身分制があって、士農工商で分かれていたら、(分かれていない時と比べて)勝ち組の数が4倍になるわけですよ。この話は極端ですが、もうちょっと多様な価値観を用意しないと。

── あれば負けのダメージが少なくなるということですね。

しりあがり そうでしょうね。今は負けるとその人の力不足、努力不足にすぐなってしまう。この前、ホームレスの人に取材しているテレビ番組を見ていてびっくりしたんですが、みんな「やるべきことをやらなかった自分が悪いんです」と。全体がブズブズ沈んでいるこの時代、(ホームレスの人は)海抜が低いため、地球温暖化で沈むキリバスみたいなものじゃないですか。それなのに、「自分の責任だ」というのは何ともやりきれない感じでした。むしろ責任があるとしたら、ウォール街とかですよね。でも「やるべきことをやらなかった」とか、「能力が足りなかった」といって、20代の人がホームレスになっている。むちゃくちゃだよね。
 でもあの人たちが牙をむいたら怖いですよ。つい最近、仏のままで死ぬか鬼になって生きるかという漫画を描きました。

── 究極ですね。

しりあがり お腹が空いてどうしようもなくなった時、いい人のままで死ぬか、人から食べ物を奪ってでも生きるか。そういうラインの人が増えてきている。年間の自殺者が3万人といいますが、考えてみたら、その人たちは仏のままで死んでくれているわけで、鬼になっていたら大変なことになる。

── さっきの身分制の話でいうと、イギリスは、アメリカよりましだという説もあります。イギリスは身分制社会なので、どこの家に生まれるかで勝ち負けが決まる、という「ようするに運」という認識がいきわたっているので、功なり名を挙げてもアメリカほど称賛されない。逆にホームレスになっても、「そもそもスタートが低かったからね」ということで、全部をその人のせいにしない。これを言ってるのがイギリス人だからあんまり説得力ないかもしれませんが。

しりあがり そうだよねえ。うまくいった人は全部その人の能力のせいで、うまくいかなかった場合もその人のせいだという理屈は、現実に間違っていますからね。
 例えばどの漫画がヒットするかなんてわからない。ベストセラーを出した編集者に聞いても、「そんな売れるとは思わなかった」と、謙遜も含めていうじゃないですか。

── 何割かは運とかタイミング。

しりあがり そうなんですね。(キリンで)一番絞りの担当だった時、「こうやって開発して、ヒットさせました」といろいろなところに講演しに行ったんです。でもヒットの要因を分析すると、開発チームがコントロールできなかった要因が多い。相手がこけたとか、スーパードライに対抗してキリンも何かやってくれないかな、という期待が世間にあったんじゃないか、とか。ヒットの要因は、開発チームがコントロールできるものばかりじゃないんですよ。やるべきことをすべてやっても、うまくいかない時はうまくいかない。万が一、うまくいったら、「ありがとうございました」と何かに感謝しないとね。

── 勝つ人が多い社会をつくるにはダブルキャリアも有効だと思うんです。こっちが駄目でも、こっちがあるからいいや、という?

しりあがり そうですね。それから、貧乏でも正直者だから偉いとか、よく働くからすごいとか、結果が出なくても、ちゃんと生きた人にはちゃんと報いがあるとか、その辺は大切にすべきですね。

── 「ずらす」という言葉がおもしろいと思いました。ずれが沢山ある社会ほど、勝つ人が増えるんじゃないんですか。

しりあがり そうかもしれないですよね。勝ち負けがはっきりしないからね(笑)。あとはご褒美ですよ。昔はプライドというのはご褒美だったじゃないですが。お金がなくても、死ぬときに名声があればうれしいとか、賞をとるとうれしいとか。そういうのが今は薄れてきた。尊敬は、お金のかからない福祉ですよ。長者を大切にしたほうが社会が丸く収まるというのは、現実的な智恵からきているはずです。尊敬や名声を誰に与えるかはある程度、社会がコントロールできる。たとえばお金持ちは尊敬しないとか。

── そういうルールにすればいいんですよね。

しりあがり お金はないけれど、人のためにきちんと生きた人を尊敬すればいい。

── 寄付したら尊敬するとか。

しりあがり そう。尊敬はみんなが持っている武器だから、勝者を多くするには尊敬を使うのがいいかもしれない。もちろん、無からつくりだすのは難しい。宗教的な独裁には走らず、ゆるやかなかたちで自発的に出てくれば……。

── 今日はいろいろなお話をありがとうございました。

しりあがり ダブルキャリアの話だったのに、よかったのかなあ……。

 

 


 

【インタビューを終えて
 ダブルキャリアの掟~しりあがり寿さんの場合】

 ダブルキャリアだったキリン時代、「会社に通勤する途中の電車の乗り換え駅で、漫画頭を会社頭に切り替えていた」というしりあがりさんのエピソードが好きだ。埼玉県の朝霞に住んでいて、勤務先のキリンは原宿だった。池袋の駅で頭を切り替えて、東上線では漫画のことを、山手線では会社のことを考えていたのだ。

 そして、会社で辛いことがあっても「俺には漫画があるさ」と心中でうそぶき、漫画がうまく描けない時は「描けなくても、会社から給料が入るから困らないや」と自分を納得させていたという。

 これこそ、(2)で話されていた「ずらす発想」である。「ずらす」には、異なる視点が必要だ。その意味で、しりあがりさんは偉大なる複眼思考の人なのだ。

 思考だけではない。振る舞いも会社では完璧なサラリーマンだったらしい。一緒に仕事をした広告代理店の人が、しりあがりさんの単行本の巻末に「穏やかで折り目正しいビジネスマンであり、作品の世界から想像される破天荒さを感じさせない人だった。自分の中で厳しい一線を引き、漫画を描くこと、サラリーマンとして仕事をすること、どちらも自立させていた」という小文を寄せていた。しりあがりさん、実は「二重人格」なのかもしれない(そういえば、『しりあがり寿の多重人格アワー』(中公文庫)というエッセイも出している)。

 著書『マンガ入門』(講談社現代新書)に、モノを作っていくには、「商品」をコントロールするマネージャーと、「作品」をつくり出すケダモノという二種類の人間が必要だ、という話がある。漫画の場合、漫画家が2つを兼ねるか、担当編集者がマネージャーになるか、どちらかだという。

 キリン時代は宣伝の仕事を担当、たくさんのケダモノに接し、ある意味、マネージャー的な仕事もこなしたはずだ。しりあがりさんの「会社員+漫画家」というダブルキャリアは、自らを調教する能力を培う時期でもあったという意味で、独立後、現在に至る創作活動の大きな礎にもなったのではないだろうか。(3)にあるように、その分「ケダモノの部分が弱くなった」のは、ご指摘の通りかもしれないけれど。

 しりあがりさんはあまり肯いてくれなかったが、漫画という表現の枠ぎりぎりで、時には枠そのものを押し広げるような形で試行錯誤し続ける、稀有のクリエイター・しりあがり寿をつくるには、やはり13年間のダブルキャリアは不可欠だった、といってみたい。少なくとも、『流星課長』『ヒゲのOL・薮内笹子』『少年マーケッター五郎』といったサラリーマン漫画の傑作が生まれなかったのは確かだ。

 レトリックを駆使した批評で有名だった花田清輝という書き手がいた。彼が昭和18年に発表した「楕円幻想―ヴィヨン」というエッセイがある。大略、円よりも楕円のほうが魅力的だ、ということを述べた内容なのだが、そこにこんな文章がある。

 〈楕円は、焦点の位置次第で、無限に円に近づくこともできれば、直線に近づくこともできようが、その形がいかに変化しようとも、依然として、楕円が楕円である限り、それは、醒めながら眠り、眠りながら醒め、泣きながら笑い、笑いながら泣き、信じながら疑い、疑いながら信ずることを意味する。これが曖昧であり、なにか有り得べからざるもののように思われ、しかも、みにくい印象を君にあたえるとすれば、それは君が、いまもなお、円の亡霊に憑かれているためであろう〉

 2つの焦点をもつ楕円とはダブルキャリアだ。それが有り得べからざるもののように思われ、しかも、みにくい印象をあたえるとすれば、それはあなたが、仕事はひとつ、キャリアは単線、という亡霊に憑かれているためであろう。しりあがりさんの場合も「楕円の人」をまっとうしたからこそ今があるのではないだろうか。

 

 
 

しりあがり寿

しりあがり・ことぶき

1958年、静岡市生まれ。多摩美術大学グラフィックデザイン専攻卒。81年キリンビール入社。同年漫画家としてもデビュー。85年『エレキな春』(白泉社)刊行。94年同社を退社して専業の漫画家に。2000年文藝春秋漫画賞受賞。2001年『弥次喜多in DEEP』(エンターブレイン)で手塚治虫文化賞「マンガ優秀賞」受賞。そのほかの代表作に『ヒゲのOL・薮内笹子』(竹書房)、『地球防衛軍のヒトビト』(朝日新聞社)、『方舟』(太田出版)などがある。エッセイスト、ゲーム作家としても活躍中で、昨年、初の本格エッセイ集『人並みといふこと』(大和書房)を上梓。


インタビュー・構成=荻野進介
●おぎの・しんすけ 1966年、埼玉県生まれ。一橋大学法学部卒業。著書に『ダブルキャリア 新しい生き方の提案』(共著、NHK出版、生活人新書、2007年)。

 
 
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