ダブルキャリア列伝【8】 しりあがり寿さん

[第26回] 「会社では漫画を封印」を貫いたキリン時代

 
 
2009年4月1日
 
 

 ダブルキャリアとは、「複数の仕事をかけ持ちし、多忙だけれども、充実した職業生活を送る」ことを指す言葉である。広い意味でいえば「副業」ということだが、お金儲けがその筆頭動機ではないという点で、あえて「キャリア」という言葉を使っている。この連載では、スーパーなダブルキャリア人たちを取材し、その仕事ぶりを伺っていく。

 連載8人目にご登場いただくのは、漫画家のしりあがり寿さんである。
 しりあがりさんは、多摩美を出て、キリンの宣伝部に入り、あの「一番絞り」開発チームにも在籍していた。その傍らで漫画を描き、多くの作品を雑誌に発表してきた。
 13年勤めた会社を退いてからは漫画に専念。
 ギャグ漫画から時事漫画まで分野は幅広く、作品形態も長編あり一コマあり、テーマに至っては「死」や「病気」をテーマにした作品から、「ホモでヤク中の二人が伊勢参りする」というシュールな設定の『弥次喜多』、世界が水没してしまう恐怖を描いたSF的な『方舟』まで、何々漫画家というジャンル分けができない稀有な存在となっている。
 東京・渋谷にある事務所でお話を伺ったのだが、話題は本題のダブルキャリアから、敗者を増やすばかりの日本社会の矛盾まで広がっていった。


インタビュー・構成=荻野進介
●おぎの・しんすけ 1966年、埼玉県生まれ。一橋大学法学部卒業。著書に『ダブルキャリア 新しい生き方の提案』(共著、NHK出版、生活人新書、2007年)。

 
 

しりあがり寿

しりあがり・ことぶき

1958年、静岡市生まれ。多摩美術大学グラフィックデザイン専攻卒。81年キリンビール入社。同年漫画家としてもデビュー。85年『エレキな春』(白泉社)刊行。94年同社を退社して専業の漫画家に。2000年文藝春秋漫画賞受賞。2001年『弥次喜多in DEEP』(エンターブレイン)で手塚治虫文化賞「マンガ優秀賞」受賞。そのほかの代表作に『ヒゲのOL・薮内笹子』(竹書房)、『地球防衛軍のヒトビト』(朝日新聞社)、『方舟』(太田出版)などがある。エッセイスト、ゲーム作家としても活躍中で、昨年、初の本格エッセイ集『人並みといふこと』(大和書房)を上梓。

 
 

 

── キリンの宣伝部時代の仕事内容を教えてください。

しりあがり 広告代理店の人に、こういうアイデアや、こういうCMをくださいと伝える編集者の役割です。

── 糸井重里さんとも仕事をされた。

しりあがり そうですね。直にクリエイターの方とやることもありました。糸井さん、いるだけで緊張しちゃってね、かっこよかったなあ、オーラ出てたし。
 お相手は一流の人ばかりでした。それが嫌でね。僕は美大で、たとえばレタリングの成績なんかCだったわけですよ。なのに、日本のトップクラスの人にパッケージデザインをお願いして、出てきたものにコメントしなければならない。
 もちろん仕事しているうちに、見た目はかっこいいけど店頭に置くと目立たないとか、缶としてのデザインはいいけどお客さんが他と間違えてしまうとか、キリンなりの見方でコメントできるようになったんですけど、最初は嫌でした。

── 入社当初は、「キリンの社員一本でやっていこう」と思っていたんですか。

しりあがり 最初からサラリーマンに向いているとは思ってなくて、「いつか漫画家になるんじゃないか」という感じが漠然としていました。それで、入社して間もなく、独身寮に出版社から電話がかかってきたんです。大学時代の同人誌を見てくれた人が「漫画を描いてみないか」と。だから僕の場合、作品を持ち込んだりしたわけでもなく、労せずしてそういう道に行っちゃったんです。その時は忙しくて、同人誌に載った作品をそのまま転載してもらったんですが。

── それからコンスタントに注文が来たわけですね。

しりあがり その後、1、2作描いて、3作目に『流星課長』を描いたんです。それが実質的なオリジナルのデビューでした。それを見て、小学館とか白泉社から電話かかってきて、そこからずっと仕事が続いています。

── 通勤電車で席を取るために闘う課長の話ですね。この「流星課長」のアイデアは通勤の時、ひらめいたのでしょうか。

しりあがり そうですね。独身寮が京王線の仙川にあって、そこから通勤していたんですが、美大生から見ると変でしょ。スーツを着たいい大人が席取りしたりして。

── はい(笑)。ご自身もスーツを着ていたわけですか。

しりあがり 着ていましたよ。でも、よれよれだったなあ、平気でカレーつけたりして(笑)。

── 直属の上司が面倒見のいい人で、人事に、「この人は漫画を描くから(副業を)認めてやってくれ」とかけあってくれた。

しりあがり そう。課長です。部長と課長に漫画を描いていることをばらしたら、「いいよ」って。就業規則では駄目だったんですが。

── 2つを両立させるのに苦労した時期はありましたか。

しりあがり そうですねえ。具体的にいうと、(アサヒビールの)スーパードライが出た翌々年の89年かな。キリンで、ハートランドという地ビールの開発をやった時です。まったく真反対のコンセプト。それでもスーパードライが圧勝し、キリンがそれに対して、あらゆる場面に合うビールを出してカバーしようというフルライン戦略を立てたんです。
 僕はパッケージデザインをやっていたのですが、一つビールを出すとすごく仕事が増えるんです。缶やビンが何サイズもあるし、それらを包むカートンから王冠まで、全部一揃い作らなければならない。あの年の暮は忙しかった。全国の工場に行って、刷り出しの立会いをするんです。父親の具合も悪く、昭和天皇が亡くなる直前で、すごい年だった。

── その傍らで漫画も描かれていた。

しりあがり でもそんなに量を描いていたわけじゃないし、それ自体は大変ではなかったですけどね。

── どんな雑誌に作品を描いていたんですか。

しりあがり 『宝島』、『ホットドッグ・プレス』、『Hanako』もやってたな。

── キリンの給料より漫画の原稿料が高くなったことはありますか。

しりあがり 最後のほうはほぼ同じくらいでした。

── 社内で問題にならなかったですか。

しりあがり ならなかったですね。会社優先が徹底していましたから。同僚の結婚式とか、行かなきゃいけないじゃないですか。出版社の編集者には「ごめんなさい。そういう状況の中でしか仕事はできないです」とあらかじめ話をしていました。それから「顔と名前と社名は絶対出さないでくれ」と。それは守っていました。
 漫画を描くための休みも取らなかった。徹夜して会社に行って、トイレで寝ていたこともあります。会社って信用が重要じゃないですか。「こいつ、有給休暇を取って漫画を描いているぞ」と思われると、すごく辛いですよね。

── 仕事やりにくくなりますよね。

しりあがり まさにそう。会社の仕事は仕事で好きだったんですよね。コマーシャルにも関われるし、そのころビール戦争が注目されていましたからね。辞めたくなかった。
 そういう意味で、会社では漫画っぽいことは出さないようにしていました。「しりあがりだから、おもしろいアイデア通してくれるのでは」と期待して来る代理店の人がたまにいました。そういう場合は「裏づけとなるデータを持ってきてください」と。普通の人よりよほど硬くて嫌な社員だった。気が弱くて、データがないと上に通せないという事情もあったんですが。

── でも仕事は評価されていたんでしょう。

しりあがり それはどうでしょう。若者向けの、ちょっと変わった商品を作ろうとしたら、漫画を描いているような奴を入れたくなるでしょう。どんな漫画か見もしないで(笑)。仕事で評価されるというより、チームのバランスを考えて、「変わった奴、一人入れとけ」みたいな判断だったと思います。

── そういう二足の草鞋を履いても十分やっていける環境があったということでしょうか。

際限なく降り続く雨によって世界が水没するさまを描いた「滅び」の物語。

しりあがり 環境というほど大げさなものではありません。同じ二足の草鞋でも、僕の場合、漫画と広告、どちらもモノをつくるという意味で似ていた。広告の世界の川上、お金を出すところと、最後の仕事を受注するところ、その両方を経験したわけです。途中に広告主、代理店、プロダクションがあって、最後がアーティスト、という風に仕事は流れるものですが、広告主とアーティストの両方やっていた感じ。ダブルキャリアをやりながら、全体の仕事を両端から見ていたんですね。

── 漫画の発想がキリンでの仕事に生きたことはありますか。

しりあがり あまりなかった。会社の仕事に漫画を持ち込んだら面倒くさくなる。それは封印していました。だって相手は一流のクリエイターたちですよ。いくら漫画を描いていても、こっちは広告に関しては素人ですから。


(第2回に続く)

 
 

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