職場の心理学 [273]●永井 隆

「一体感を醸成する」キリンビール新米工場長の闘い

 
 

震災直後、仙台工場に赴任した新米工場長。
津波で甚大な被害を受け、いまだ操業再開に至っていないこの工場を
最高レベルの工場にしようと動き出した。

 
 

ジャーナリスト
永井 隆=文
text by Takashi Nagai
●ながい・たかし 1958年、群馬県生まれ。明治大学卒。「東京タイムズ」記者を経て独立。『国産エコ技術の突破力!』『人事と出世の方程式』など、著書多数。

宍戸清孝=撮影
キリンビール=写真提供
高橋常政=イラストレーション

 
 

どこよりも高効率で
きれいな工場に

「ゆで卵です。工場長もどうぞ。あっ、回してもらえますか」
 屋外に散乱した缶ビールを拾う作業の手を休め、ベテランの女子社員が紙袋を回してくれる。中にはゆで卵。彼女が出勤前に、みんなのために作ってきてくれたものだ。

キリンビール 仙台工場工場長
横田乃里也
Noriya Yokota●1961年、岡山県生まれ。東京工業大学卒。84年キリンビール入社後、滋賀工場、MIT留学、取手工場、北陸工場、人事部、名古屋工場、キリンオーストラリアなどを経て2011年3月より現職。

「ありがとうございます。いただきます」。キリンビール仙台工場の横田乃里也は、「工場長」と呼ばれても、まだ馴染めない自分を感じながらも、袋から一つを取り出す。
 曇り空の午前10時半。草の上にみんなで車座となり、殻をむく。手渡しで食塩も回ってくるが、その後は菜っ葉の漬物がやってきた。別の女子社員が、やはり自宅で漬けた一品だった。
「おいしい」「ホント? よかった」「昼までもう一息だから、卵食べて頑張ろう」。泥だらけになりながら、一日中しゃがみこんでの作業は足腰にかなりこたえる。辛い作業のはずなのに、車座からは笑顔がこぼれる。
 日差しは強くなり、「あのとき」から1カ月が過ぎようとしている。少し離れた場所でも、同じような車座ができ、やはりみんなで何かを食べている。

「こんなに厳しい状況なのに、文句を言う人がいない。何より、みんな元気で明るく、会社のことを考えてくれている」。横田は、そこはかとない手応えを感じた。同時に、ぼんやりとだが、ある決意を思い抱く。
「単純な復旧ではなく、復興を目指そう。つまり、どこよりも高効率できれいな工場にする。やる気がある人がこんなにいるのだから、最高のビール工場ができるはずだ。そのためには、(9月下旬に醸造を始める)あのビールを、何としてもつくり上げなければ」

 車座は、年齢、所属、役職、さらには正社員かどうかといった区別を超えていた。工場見学者を案内する女性、設備を保守するエンジニア、工場長、協力会社に所属するフォークリフトの達人、醸造技師、パート事務の女性。3月11日以前は、それぞれに制服を着て、各自の仕事をしていた。それがいまは、同じタイプの作業着を着て、ヘルメットを被りマスクや軍手をして、津波により散乱してしまった缶ビールを拾い集めているのだ。みんなで。散乱した缶ビールは約1700万本に及び、パレットやビールケース、土砂、海草なども散らばっていた。
 さらに、ビール工場のシンボルでもある貯酒タンクが4本、倒壊している。
「仕事の役割が厳格に決まり、役割で報酬が決まる海外企業では、みんなが一緒に缶ビール拾いをするなど考えられない。やはり愛社精神が発揮される終身雇用のよさが出た」
 ゆで卵を味わいながら、横田はみなの笑顔に癒やされ勇気づけられていた。

 横田は1961年2月生まれ。岡山県出身で、東京工業大学工学部化学工学科を卒業して84年に入社した。醸造畑が長く、全国の工場を渡り歩いてきた。このほか、5年ほど前には、西オーストラリア州にあった23人ほどの製造子会社で社長を経験している。
 3月11日、横田は仙台にいたが、この日はまだ、本社の生産統括部主幹の肩書。3月29日に仙台工場長の就任が内定していて、引き継ぎのため仙台にやってきていた。工場長に就くのは、初めての経験でもあった。
 震災まで予想したわけではないが、横田は極めて重要な場面での工場長初登板となったのだ。工場長経験がある社長の松沢幸一は、被災した仙台に赴任する横田に言った。
「工場長の後ろには、誰もいない」と。工場に関係する全員が工場長の一挙手一投足を見るようになるのだ。まして、未曾有の災害の直後である。新任であっても、横田は自分が工場長であることを意識せざるをえなかった。

車に布団と
衣類を積み込んで
一人で赴任

 横田は、地震発生の14時46分には所用で市の繁華街に出ていた。その直後、市内でタクシーを拾い宮城野区港にある工場へと向かう。ところが、工場の手前の七北田川にかかる橋まで来たとき、初老の運転手が叫んだ。
「津波です! 川を逆流してこちらに向かっています。ここは危ない」
 初めて見る光景に、横田は鳥肌が立つのを覚える。死がすぐ近くにあった。
 何秒間、経過しただろうか。気が付けば、周囲でサイレンが響いている。
 無言のまま、ベテラン運転手は手際よく車をUターンさせると、アクセルを全開に踏み込む。川を遡上する黒い壁のような津波よりも速く、タクシーを走らせるために。

 同じ時間、キリン仙台工場には津波が押し寄せていた。工場内の建物の屋上に避難していたのは481人。このうち129人は、一般の人たち(残りの352人が、約200人の従業員を含めキリン関係者)。
 たまたま工場を見学していた人だけではなく、近隣の住人や、近くで練習をしていたママさんバレーの選手などだ。同工場は仙台市と協定を結んでいて、津波発生時の緊急避難場所となっている。仙台工場は戦前の1923年に操業を開始した、市内でも最も古い工場の一つだった。
 重要なのは、481人全員が退避して無事だったという点。横田はいま、「奇跡と言うほかありません」と話す。現実に、車で逃げようとして津波にあうなど、工場地帯であるこの地域では亡くなった人がたくさん出ていた。

 横田が一度東京に戻り、再び仙台入りしたのは3月27日。インフラが整わず、車に布団や衣類を積み込んで一人での赴任だった。
 このときまでには、キリンとして仙台工場を閉鎖させないという大枠は決めていた。新任工場長にとって、重要な仕事の一つは、従業員や関係会社にそのことを伝えることだった。
 被災したこの工場を、立ち上げていく。つまりは工場を閉鎖しない、雇用を維持するということを。3月21日から清掃片づけ作業は始まっていたが、多くの社員は自宅待機を余儀なくされている。伝えることで、従業員をはじめとする工場関係者が抱いた不安を解消させることが、何より大切だった。「でなければ、次のステップに踏み出せない」と横田は考えていた。
「従業員のなかでも期間社員、さらには協力会社の人たちのほうが、雇用に対する不安は大きかったと思います。本社の決定により、早い段階で不安を解消させてあげられたのは大きい」

津波で缶ビール、ビンビール、コンテナと大量の泥が流されてきて工場の床を覆い尽くした(右上)。すべて手作業で回収し(右下)、床のペンキを塗り替えた(左上)。左下は地震による揺れで貯酒タンク4本が倒れた現場。


 ちなみに、期間社員は約90人、工場に出入りの協力会社社員は約200人に及ぶ。
 少子高齢化の影響から、ビール類の国内消費量は減っている。しかも、最近では日本の大手流通を中心に韓国からPB(プライベートブランド)の「第三のビール」を輸入。円高ウオン安による低価格が受けて売れている。韓国製を入れると、昨年の国内消費は一昨年と同等かそれ以上だったと見られているが、新たな脅威となっているのだ。
 94年当時キリンは15工場あったが、現在は9工場体制となっている。昨年も2工場を閉鎖したばかり。仙台工場はキリン全体の7%を生産する主力だが、地震と津波で大破してしまっていたのだ。
 震災後、被災地は無法地帯の様相を呈していた。仙台工場も盗難の被害にあう。トラックで侵入し、散乱した缶ビールを荷台に満載して帰っていった。悔しいが、どうすることもできない。

“大部屋制”で発揮された
スピード判断

 横田の着任と前後して、工場の仮設電源が稼働する。
 4月4日に仙台入りした松沢社長が、会見で地元記者の質問に答えて、季節限定ビールの醸造を9月下旬に開始すると示唆する。この瞬間から、9月下旬からの工場の再稼働が既成事実化していく。
 目標が明確になっていたのだ。その後正式発表されるが、仙台工場が最初に生産するのは「一番搾り とれたてホップ生ビール」。その年とれた岩手県遠野産ホップを使用し、2004年から毎年同工場などで醸造。今年の初仕込みは9月26日を予定している。

 しかし、当初は何の確証もない目標だった。何しろインフラも整っていない。自家発電した電気は、照明やPCなどの必要最低限の機器にだけ使う。徹底した節電である。エアコンや冷蔵庫、自販機は使わず、お湯はカセットコンロで沸かす。
 各建物は一階は浸水したため、すぐには使えない。11人の管理職ら幹部は、4月には2階の会議室に一堂に会していた。管理職の大部屋制である。その中心には、横田が座った。
 さらに、隣の部屋には、仕込み、醸造、充填・パッケージングなど、工場現場のリーダー、係長が大部屋を形成する。同じく4月に入ってから、約50人ほどでだ。

 管理職の大部屋制になったとたんに、決定のスピードは格段に速まった。のっぴきならない状況に追い込まれているからという理由だけではない。関係者がすべて集まっているから、その場で決まる。誰かが電話をしていて窮すると、別の幹部がすぐに教えてくれる。
 さらには、「ちょっと待ってください、そのお話なら、若手がこんな提案をしています」と隣の大部屋から、係長が入ってくる。大部屋のやり取りは、薄い壁を隔てているだけなので筒抜けなのだ。日々刻々と変わる情報であっても、瞬時に共有化されていった。
 物理的なだけではなく、組織的にも壁は壊れて風通しは良くなる。メンバーの心の壁も壊れ、一体感が醸成されていく。サッカーに例えるなら、フォワードとバックスとの距離を縮め、コンパクトな布陣を形成。立ちはだかる困難な問題に対しても、強烈にプレスをかけていくのだ。
 横田は「長屋世帯に似た感覚でした。みなが一つになる。一体感を醸成する、またとない機会でした」と話す。

 工場全体の片づけを進めながら、従業員全員が出勤したのは5月11日。
 松沢をはじめ、キリンの首脳はときどき工場にやってきては、復興を目指す現場を励ましていく。毎月11日には、大会議室で全員が集い、朝会を開いた。5月25日には、仙台工場内の倉庫・物流機能が一部稼働する。工場が、再び鼓動を始めた瞬間だった。
 6月11日の全体集会では、大まかな工場再生計画が示される。当面の復興には50億円が投じられるのだ。
 各工程も復興に向かい動いている。大部屋制は、工場の整備に伴い解除されていく。組織で戦うキリンとしての、本来の強さを求めていくように。

 しかし、横田はいまでも、押し寄せる津波の恐怖と同時に、あの日にみなで食べたゆで卵の味を覚えている。多くを失ったなか、女子社員が仲間のために用意した、精一杯のゆで卵であったことを、工場長は理解していた。
「『一番搾り とれたてホップ』は必ず成功させます。そして、仙台を最高レベルの工場にさせていきますよ。何しろ、人の意思と魂により、大変な困難を乗り越えた工場ですから」

▼高橋常政展「絵画の動的平衡」
2011年9/5(月)~24(土)10時30分~18時30分 ギャルリー東京ユマニテ
http://www.g-tokyohumanite.jp/
(日曜祝日休廊)

 
 
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