職場の心理学 [271]
サッポロビール仙台工場長
「有事の決断力と創造力」
3.11からの2カ月間、ビールの仕込みをストップせざるをえなかった
サッポロビール仙台工場。
自ら被災しながら地域のために炊き出しをし、
工場復興の作業を地道に積み重ねた技術屋たちの奮闘を取材した。
未知の状況で咄嗟につくった
4人組制
「4人で1チームとする。全部で7チームを編成したら、すぐに被災状況の確認に走れ」
こう指示を発したとき、仲本滋哉は“未知の段階”に入ったと認識した。マニュアルなどはなく、これから先は工場長の自分が、多くを即断し、部下たちを動かしていかなければならない。
大きくて長く続いた揺れから30分が経過していた。宮城県名取市にあるサッポロビール仙台工場は、今年で竣工40周年を迎える同社で最も古い工場だ。3月11日、外部企業を含めて同工場に勤務していたのは約150人。毎年、春と秋に実施していた防災訓練通りに、150人は行動する。
工事をしていて高所から転落した外部業者の社員を、救護班が担架で救出。救急車に乗せて送り出したのをはじめ、地震発生から30分以内に、すべての関係者の安否を確認していった。全員が、まずは正門近くのグラウンドに避難する。グラウンドと構内道路を挟んだ建屋にある大会議室には対策本部が設けられ、その中心には仲本がいた。
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| サッポロビール仙台工場長 仲本滋哉 Shigeya Nakamoto●1961年、静岡県生まれ。大阪大学工学部卒業後、同社入社。大阪から北海道まで、全国の工場や研究所にて醸造畑を歩む。2009年より現職。 |
訓練ならばここで解散だった。「前回よりも少し速くできた。また、次も頑張ろう」と訓示して終わる。しかし、今回は訓練ではなく、滅多にない実戦である。粉雪が舞い、気温は下がり始めていた。
7つのチームは、停電した工場内の各現場を点検して、逃げ遅れた人の有無、火災発生やガスおよび液漏れの確認、さらには危険個所を特定し被害状況を把握するのが役割だった。
訓練にはない未知の段階に突入して、工場長の仲本が最初に決めたのが1チーム4人の編成だった。309年前、大石内蔵助は3人一組をチームとした。しかしあれは、狭い吉良邸への攻撃的な布陣だ。今回は、広大な工場の各工程を、確認しなければならない。
やはり、3人では少なすぎる。5人では、一目で全員を見ることができず、多すぎる。4人ならば、誰かが負傷したとき2人が負傷者を担ぎ、1人が連絡に走れる。そう考えた仲本の咄嗟の判断だった。
「暗いなかでの確認作業だ。何があろうと、30分経過したら、ここに帰ってくるんだ」
7チームをこう言って送り出す。携帯電話のワンセグ放送から、仙台空港にまで津波が押し寄せたニュースを知る。相変わらず余震は続く。ガソリン式の発電機を稼働させ、非常用の衛星通信電話を利用できる状況にした。
夜が近づくに従い、近隣の人たちが工場に集まってきた。発電機が動き、灯りが点ると人の数はさらに増えていった。仙台工場は、行政が指定した避難場所ではない。しかし、この地で40年も操業しているため、地域社会に溶け込んでいた。集まった人々を工場見学者用のゲストルームに誘導するよう、仲本は部下に指示した。
飲料や菓子類、防寒具を提供していく。すべて仲本の独断であるが、迅速さが求められた。
約200人がゲストルームで夜を過ごす。何しろ、照明が点いているのは周辺では仙台工場だけなのだ。
一方で仲本は、帰宅ができる社員をできうる限り帰した。夜、衛星電話が東京の本社とつながったときには、少しだけ安心する。箱詰め工程の天井パネルが落ちているなど、7チームが探ってきた情報を本社に報告する。
「とにかく冷静に、落ち着いていこう」。部下たちや自分自身に、仲本は訴えていた。
仲本は1961年生まれ。大阪大学工学部で発酵工学を学び、84年に入社。醸造技師として全国の工場を勤務して回り、ベルリンで醸造技術を学んだり、ミュンヘンに駐在した経験もあった。特に、「私は酵母の扱いがうまい」と自信を持っている。
2日目の夕刻、仲本は片道1時間歩いて妻と4人の子どもが待つ自宅に戻る。家族に無事な姿を見せると、再び工場へと歩いて戻る。「真っ暗な国道を、人々が黙々と歩いているのです。あの光景は忘れることができません」。
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| サッポロ黒ラベルが充填され、印字機へと流れていく。このラインがある部屋も天井が落ちてしまうダメージを受けた。 |
3日目の13日、本社の災害対策委員会から基本方針が発せられる。サッポロでは、仙台工場のほか、千葉工場も液状化に見舞われて被災していた。
基本方針は、一、人命第一・安全最優先。二、地域・社会への貢献。三、事業の維持・継続。優先順位ではビジネスのことは最後に考えればよかった。
基本方針発令は、仲本を心理的に落ち着かせてくれた。「工場長判断として臨機応変に対応していくための、基本を本社が示してくれたから」と仲本。何しろ未曾有の震災だ。地震発生から、仲本は独断で決裁してきたが、決めることに対するプレッシャーはきつかった。ようやく、判断の拠り所となるものが示されたのだ。
方針に基づき、仲本はすぐに次の三つを決め、部下に徹底させていく。一、立ち入り禁止区域の設定。二、単独行動の禁止。三、決して無理をしない。
有事において本社はまず、基本的な指針を現場に下ろすべきだろう。現場では一時的に指揮官にすべての権限が委ねられる。本社が意思を示すことで、現場の指揮官は余裕を持って決裁に臨めるからだ。少なくとも、孤高の決断を継続する恐怖からは解放される。
3日目は、工場内のレストラン「仙台ビール園」で炊き出しが始まり、近くの避難所にも配布していく。
4日目の早朝、東京の本社から救援物資を積んだトラックが到着する。助手席から防災服の高島英也取締役執行役員経営戦略本部長が、降りてきた。
「おぅ、ご苦労さん」
有事のときには、行動力のある役員が頼りになる。高島たちは前夜に東京を発ち、東北自動車道を夜通し走り続けてきた。高速道路を利用できたのは、救援車両として許可を得たためだったが、「自衛隊の車両ばかりだったぜ」と高島は話した。高島も醸造技師が長く、仲本の前に仙台工場長を経験して、2009年から現職である。現在は東京恵比寿の空調のよく効いた本社で背広でいることが多いが、本来は作業服姿が似合う男だった。
仲本は、従業員は全員無事であったものの、社員の家族や協力企業に亡くなった人が出たこと、把握している工場の被災状況、そして、「場合によっては復旧に、半年程度はかかるかもしれません」と所見を伝える。高島からは強い要請はない。本社は現場を精一杯サポートするが、決して邪魔をしてはいけない。
現場を知らない偉い人が重要な時間帯にヘリで降りるなど、本当はやってはいけないことだ。むしろ、偉い人は現場が自由にやれるように盾になるぐらいでなければ、存在する意味がない。
本社が出す救援トラックは定期的にやってきた。復旧の応援隊員とともにだ。紙おむつや非常食、粉ミルクなどを、ゲストホールにいる人たちをはじめ避難所の人たちに配布していった。
仲本は被災したなかで、「工場を明るい雰囲気にしよう」と決めていた。
「本日のスペシャルゲストです」と、朝礼のときに応援でやってくる社員を紹介し、元気なスピーチをもらっていた。ゲストに話してもらい「自分たちは一人ではない」という意識を部下たちに示し、復旧に向けて「確実に進捗している」と前向きに考えてもらえるようにと心を砕いた。工場内に流すニュースも、どこかの町でインフラが復旧した、漂流していたペットの犬が助かったといった明るいニュースを、多く流すようにした。
仲本はいまは次のように話す。
「小さな失敗や試行錯誤はありましたが、大きくぶれることはなかったと思います。基本方針に沿うように判断していきました。特に、有事のときには、明るい気持ちを持つことが必要。暗くなっては前に進めませんから」
一つひとつ積み上げたものが
崩れてしまった
その男は、春分の日に一人でやってきた。前日には、仲本の携帯に電話があった。「必要なものは何か?」「被災された方への、炊き出しの材料が底をついております。肉や魚があればと思います」「そうか、わかった」。
男は羽田から山形空港に飛び、市内のスーパーで食材を購入する。肉に魚介、野菜、味噌に醤油。これらをタクシーに目一杯に詰め込み、名取市にやってきたのだ。
仲本が工場でタクシーを迎えたとき、食材の間から降りてきた。秘書も伴わずにやってきたその男は寺坂史明。サッポロビール社長である。寺坂は営業、企画、人事、宣伝と多彩な経歴を持つ。とりわけ、豊川悦司と山崎努を起用したビールのCM「温泉卓球」は、寺坂の名を一躍有名にさせた。出世しても威張ることもなく、何よりフットワークは相変わらず軽い。工場では励ましの挨拶だけすませると、仙台市の営業現場へと向かっていった。
立ち入り禁止区域が設定されるなど、工場はそれなりに被害を被った。だが、仕込み釜、発酵釜、貯酒タンクには大きな被害はなかった。各部署からの応援要員にも助けられ、思ったよりも早く復旧が見込めそうな運びとなった。
そんな矢先、4月7日の午後11時32分頃、宮城県沖を震源とするM7.1の大きな地震が再び発生した。
「うまくいっていただけに、本当にガックリしてしまいました」
ビール工場は、巨大な装置群で構成されている。停電状態から電気インフラが回復しても、すぐに装置への通電はやらない。電気を通しても問題ないのか、装置の小さなところをチェックしていくのである。文字通り、一つひとつ、積み上げていくような確認作業が続くのである。
仙台工場は当初の見通しよりも早く、確認が進んでいた。ところが、7日の地震で「もう一度最初から始めなければならなくなりました。自然災害は、どうすることもできません」と仲本。
「早く通常稼働させたい」という気持ちは誰もが持っていた。しかし、焦らずに、もう一度積み上げていくしかなかった。
当初、ゲストハウスに宿泊した人、炊き出しのサービスを受けた人たちから、仙台工場へのお礼がいくつも届いていた。市内の各避難所向けに、仙台ビール園は毎日500食分を供給した。6月半ばまでで、累計では5万食。
そのビール園は、4月8日に営業を再開する。地元の食材をふんだんに使ってだ。工場の復旧はやり直しとなったが、敷地の入り口のレストランが開いたのは、仲本をはじめ工場従業員の励みとなる。
5月2日には缶にビール類を詰める充填・パッケージングラインが稼働を開始。天井からほとんどのパネルが落下したが、復旧は早期に実現できた。5月中には、心臓部である仕込み設備も再稼働。6月末には震災後に仕込んだ「初仕込みビール」が発売になった。
「停電で酵母がダメになりましたから、千葉工場からローリーで運んできたのです。初仕込みビールはオールサッポロの商品です」
不思議だったのは、震災前までは凡庸だったのに、3月11日以降の有事となったとたんに高いパフォーマンスを発揮する社員が複数いた点だった。30キロの道のりを自転車で飛ばして出社してくる従業員もいた。いろいろなことが発生するのだが、仲本はいましみじみと話す。
「やはり、ビール類をつくってこその工場です。ものをつくれる喜びは、何にも代えられません。需要に応じられる生産を果たし、地域の経済復興にも貢献していきたい」
震災に見舞われながら、新しい現場力がフル稼働を始めた。
(文中敬称略)
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