ビジネススクール流知的武装講座 [247]

化学産業が
次の日本経済をリードする

 
 

日本経済の成長力が弱くなった現在、
次のリーディング・インダストリーを見つけるのは難しい。
一定の条件が整えば、化学産業には、
その役割を担う可能性が大いにある、と筆者は説く。

 
 

一橋大学大学院商学研究科教授
橘川武郎=文
text by Takeo Kikkawa
1951年生まれ。東京大学大学院経済学研究科第2種博士課程単位取得。青山学院大学助教授、東京大学社会科学研究所教授を経て、現在一橋大学大学院商学研究科教授。専攻は日本経営史、エネルギー産業論。著書に『日本電力業発展のダイナミズム』、共著に『現代日本企業』などがある。

平良 徹=図版作成

 
 


機能性化学製品の世界シェアは
自動車より高い


 日本の近代化のプロセスでは、その時々のリーディング・インダストリー(主導産業)が、経済発展全体を牽引してきた。それは、明治初期の製糸業に始まり、綿紡績業、化学繊維産業、造船業、鉄鋼業、電気機械産業、自動車産業と受け継がれてきた。新興国の台頭が著しく、日本経済の成長力が鈍化した今日、次のリーディング・インダストリーを見つけ出すことは、簡単ではない。IT産業やコンテンツ産業に期待する向きもあるが、国際競争力や事業規模を考え合わせると、ただちに、それに賛同することはできない。そのようななかで、最近になって、化学産業こそが次の日本のリーディング・インダストリーだとする見方が、徐々に広がりつつある。
 たしかに、化学製品の売上高は、自動車や電子機器、電子部品のそれに比べれば小さい。しかし、LCD用偏光板保護フィルム、化合物半導体、カーボンファイバー、リチウム電池用正負極材、シリコンウエハなど機能性化学部材に関しては、日本製品の世界シェアが、自動車・電子機器・電子部品の場合よりはるかに高い。この点に注目すれば、化学産業のリーディング・インダストリー化は、大いにありうることなのである。
 一方で、化学産業がリーディング・インダストリーとなるためには、クリアしなければならない課題も多い。
 まず、日本の化学メーカーは、事業規模の点で、欧米のトップメーカーに大きく水をあけられている。これは、欧米メーカーと互角ないしそれ以上の売上高をあげている、自動車業界や電機業界の場合とは異なる現象である。化学業界においては、売上高で見て世界第1位のBASF(ドイツ)が700億ドル強であるのに対して、国内第1位の三菱ケミカルHDは200億ドル弱で世界第14位にとどまる(2008年のデータ)。先にあげた日本の歴代のリーディング・インダストリーは、すべてではないにしても多くの場合、一時的ではあれ産業全体の生産高が世界一となるか日本メーカーが世界トップカンパニーとなるかして、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代を築いてきた。化学産業がリーディング・インダストリーとなるためには、事業規模の拡大という課題を達成しなければならない。


日本の化学産業が持つべき
将来ビジョンとは


 また、日本の化学メーカーは、高付加価値部材を日本のセットメーカー(自動車メーカーや電機メーカーなど)に供給しつつも、サプライチェーンのなかで主導権をセットメーカーに握られることが多かった。そのうえ、最近では、日本のセットメーカーの国際競争力自体が、(1)コストが安価な他のアジア諸国でも高品質の製品が作られるようになった、(2)必ずしも高品質な製品ばかりが求められる状況ではなくなってきた、(3)まず国内生産からスタートし、その後に海外展開を図ってきたわが国のセットメーカーが、当初から新興国市場ニーズを反映した商品開発を進めてきた海外のセットメーカーに出遅れるケースが目立ち始めた、(4)標準化やビジネスモデルなどで欧米企業に先行されている、などの理由で低下しつつある。化学産業がリーディング・インダストリーとなるためには、サプライチェーンのなかでの主導権を確保し、高付加価値化の果実を収益化するという課題を達成しなければならない。

 日本の化学産業がこれらの課題をクリアし、リーディング・インダストリーとなるためには、どのような将来ビジョンを持つべきか。この問題に正面から切り込んだ研究会が、経済産業省製造産業局化学課を事務局として、開催された。昨年11月から今年4月にかけて会合がもたれた「化学ビジョン研究会」(座長:橋本和仁東京大学大学院工学系研究科教授)が、それである。筆者(橘川)は、同研究会の委員とともに、同委員会のもとに設けられた石油化学サブワーキンググループの座長もつとめた。以下では、化学ビジョン研究会の報告書の内容を紹介しつつ、日本の化学産業の将来展望について考察したい(前述した日本のセットメーカーの国際競争力低下に関する要因分析も、化学ビジョン研究会報告書に盛り込まれている内容である)。
 なお、この化学ビジョン研究会は、昨年9月の政権交代以来、きわめて早い時期に開催された産業単位の競争力向上をめざす審議会として、注目される存在であった。産業横断的に競争力向上策を検討する産業構造審議会の産業競争力部会がスタートしたのは、今年2月のことであり、化学ビジョン研究会はそれに先行するものだったのである。

 化学ビジョン研究会報告書は、日本の化学産業が進むべき方向軸として、左図のような四軸を打ち出した。
 第一の軸は、新興国のボリュームゾーンの攻略、石油化学等の原料国立地、石油化学誘導品等の消費国立地などからなる「国際展開」である。これらのうち、ボリュームゾーンの攻略は、海外展開する際に、先進国のハイエンド市場ばかりでなく、コスト削減を進めて、急伸する新興国のボリュームゾーンをもターゲットにするということである。石油化学等の原料国立地については住友化学のラービグプロジェクト(サウジアラビア)、石油化学誘導品等の消費国立地については三井化学・出光興産のニソンプロジェクト(ベトナム)という、先行事例がある。
 第二の軸は、システム化・ソリューション志向、素材から部材へ・部材から消費財へ、1・3次産業への展開などからなる「高付加価値化」である。これらのうち、システム化・ソリューション志向、素材から部材へ・部材から消費財へ、などの項目は、化学産業がサプライチェーンのなかで主導権を確保することと、深く関連している。また、1・3次産業への展開は、バイオリファイナリーの実用化などの、化石資源からの脱却につながるものである。


ハイエンドとローエンドへの
二正面作戦が必要


第三の軸は、地球温暖化問題への対応、化学物質安全管理の強化、安心安全の提供などからなる「サスティナビリティの向上」である。これらのうち、地球温暖化問題への対応に関しては、二酸化炭素原料化やバイオマス利用、エネルギー効率の向上、温室効果ガス排出抑制効果の高い製品による貢献などが重要である。また、化学物質安全管理の強化に関連して今回の化学ビジョン研究会報告書は、「化学物質管理制度のアジア標準化に向けたロードマップ」を示している。
 第四の軸は、研究開発の強化、評価技術基盤(拠点)の整備、人材の育成などからなる「技術力の向上」である。これらに関連して化学ビジョン研究会報告書は、「化学分野における評価研究開発拠点整備に向けたロードマップ」と「化学人材育成プログラムへ向けたロードマップ」を提示している。

 化学ビジョン研究会が打ち出した日本の化学産業が進むべき方向軸の大きな特徴の一つは、高付加価値化とボリュームゾーン攻略の二正面作戦を鮮明にした点に求めることができる。高付加価値化は第二の軸において、ボリュームゾーン攻略は第一の軸において、それぞれ明記されている。
 高付加価値化がターゲットとするのはハイエンド市場であり、ボリュームゾーン攻略の対象となるのはローエンド市場である。これら両市場を同時に攻めることがいかに難しいかは、C・クリステンセンの名著『イノベーションのジレンマ』(伊豆原弓訳、翔泳社、00年)がすでに明らかにしたとおりである。
 しかし、日本の化学産業が次のリーディング・インダストリーとなるためには、ハイエンド市場とローエンド市場とを同時に攻略する二正面作戦の展開が、必要不可欠である。なぜなら、ハイエンド市場を攻略することは、高付加価値化の果実を収益化するという課題を達成することと同義であり、ローエンド市場を攻略することは、事業規模の拡大という課題を達成するうえで避けて通ることのできない関門だからである。すでに述べたとおり、これら二つの課題を達成すれば、化学産業のリーディング・インダストリー化が可能になる。

 困難な二正面作戦を遂行する担い手は、いうまでもなく、民間企業である各化学メーカーである。ただし、民の経営努力をサポートするという意味で、官の出番がないわけではない。官による制度的支援の内容としては、次の四点が重要である。
 第一は、独占禁止法の適用改善である。日本の化学メーカーが、国際競争力を強化するためには、各企業が得意分野に経営資源を集中することが大切であり、そのためには、事業ポートフォリオの入れ替えを可能にする企業間の事業統合が求められる。しかし、独禁法が国内的視点で運用されると、この事業統合を抑制するおそれがある。独禁法運用における国際的視点の確立は、喫緊の課題といえる。また、独禁法関連の事前審査のスピードアップも、必要であろう。
 第二は、海外の事業環境とのイコールフッティングの確保である。これが実現しないと、そもそも国際競争力を云々すること自体が無意味になる。この点では、国際的に割高な法人税の軽減、国際的には常識の原料非課税(原料用ナフサ免税、温暖化対策税での原料非課税など)の維持、夜間着桟規制の緩和、漁業補償の軽減などが、重要なテーマとなる。
 第三は、事業転換への支援である。例えば、二酸化炭素排出量削減等のためコンビナートで設備集約を行う場合に系統・配管等の付け替えに対する助成を行うこと、事業転換時に雇用面での支援策を施すこと、などが考えられる。
 第四は、地球温暖化防止に資する制度設計である。この点では、LCA(ライフサイクルアセスメント)の視点を盛り込んだ制度を導入すること、海外で省エネに貢献した場合にその二酸化炭素排出量削減実績をクレジットとして認定すること、などが大切である。なお、LCAとは、商品が環境に与える影響を、原・燃料の採取から製造加工・販売・消費を経て廃棄にいたるまでの全過程を視野に入れて評価する方法である。この考え方に立てば、化学製品を使用することによって、断熱、照明、包装、海洋防食、合成繊維、自動車軽量化、低温洗剤、エンジン効率、配管、風力発電、地域暖房、グリーンタイヤ、太陽光発電などの諸分野で、二酸化炭素(温室効果ガス)排出量を大幅に削減することができる。ICCA(国際化学工業協会協議会)が09年に発表した報告書は、「化学工業により可能となる温室効果ガス排出量削減は、同業界による排出量の2.1~2.6倍に相当し、2030年までの削減可能性は4.2~4.7倍に達する」、と結論づけている。
 民の経営努力と官の制度的支援が結びつけば、化学産業は、日本経済の成長を牽引する次のリーディング・インダストリーとなりうるのである。


 
 
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