ビジネススクール流知的武装講座 [244]

わがままな客の心を開くカギ
「物語的理解」とは?

 
 

1970年以来、経営学では、理科系的発想の
「科学的理解」に基づいた研究が広まってきた。
しかし、現実をより深く理解するためには、
文科系的発想に基づく「物語的理解」も重要だ、と筆者は説く。

 
 

流通科学大学学長
石井淳蔵=文
text by Junzo Ishii
1947年、大阪府生まれ。神戸大学大学院経営学研究科博士課程修了。神戸大学大学院経営学研究科教授などを経て、2008年4月より、流通科学大学学長。専攻はマーケティング、流通システム論。著書に『ブランド』『マーケティングの神話』『営業が変わる』などがある。

平良 徹=図版作成

 
 


理科系発想と文科系発想
どう異なるか


 理科系の発想とは、「原因と結果とをきちんと見極める」ことにある。因果関係の見極め、それは「科学的理解」の真髄である。その理解では、現実の経緯は、えてして直線的で、そうでしかない必然の道として描かれる。リンゴが木から落ちるのは重力が働き、酸素と水素を化合すれば水が生まれる。そこには紛れはない。こうした因果の理解は、自然現象に留まることなく、「科学的理解」として社会現象にも適用されてきた。経営学の世界でも、この理解に基づいた研究が1970年頃から急速に広まった。
 しかし、社会の理解の仕方には、科学的理解とは異なる、もう一つのいわば曲線的な筋道(プロット)による描き方もある。それは、「物語的理解」、いわば文科系的発想の立場だ。
 ここでは、これらの二つの理解の仕方の特徴を明らかにしながら、経営を理解するうえで「物語的理解」の小さからざる意義を示したい。なお、2010年3月15日号に、鮮度概念の誕生を手がかりに二つの立場を浮き彫りにしているので、そちらも合わせて参照していただければと思う。

 結論を先取りして言えば、科学的理解の立場は、「原因から、必然の道筋の中で生まれてきた結果(現実)」という理解を促す。他方、物語的理解は、「(結果となる)現実の生成に関わったいろいろな当事者の判断や思惑、あるいはさまざまな偶然が重なる中で生まれてきた現実」という理解を促す。
 この二つの理解の性格の違いについては、以下の二つの図を比較するとわかりやすい。いずれの図も主に、ある人が、過去のある時点〈t-1時点〉から現在時点〈t時点〉に至る過程を示す。

 まず、〈t-1時点〉から〈t時点〉に向けて見た状況を考えて見よう。
 それは、図1に表される。〈t-1時点〉にいるその人は、A、B、Cという三つの選択局面に直面し、そしてそれぞれの局面でいくつかある選択肢の中から一つの選択肢を選んで、〈t時点〉の状況に到達する。さらに線が引かれているが、現在のそこから将来に向けて道が開けている。
 この図を見ていると、「A、B、Cのいずれの局面であれ、違った選択肢を選べば、現在(つまり〈t時点〉の地点)とはまったく違った地点に到達したかも……」とか、「今この地点に私がいるというのも、たまたまのもの……」という想像力が、皆さんの心の中に思い浮かぶと思う。
 また、私たちが〈t時点〉にたどり着いて、そこから将来を見ると、一番近い未来であるX地点において、いくつかの選択肢が広がっていること。その選択肢の一つを選んで、Y地点に到達すれば、また同じように選択肢が広がっていること、そしてさらにその先の、と続いていく。私たちが進むべき道は、一つ一つの局面とそこでの選択肢を考えると、無限に広がりをもつ。そう見える。物語的理解は、このような〈事前の見え〉の理解に基づく理解の仕方である。


経営の現実を理解するのに必要な
「鳥瞰図」と「虫瞰図」


 もう一つの図は、到着点である〈t時点〉から、〈t-1時点〉を振り返った図だ。〈t時点〉に到達したその人には、〈t-1時点〉からの道は、どう見えるだろうか。
 おそらく、選択肢がいろいろに分岐した道というより、〈t時点〉から〈t-1時点〉へと、一筋の道に見えることだろう。そこに至るまでに三つの選択局面があったことも、その局面ごとに複数の選択肢があったことも、隠れてしまう。
 そして、たとえばその人がある人から、「どうですか。この〈t地点〉に到達されてのご感想は?」と質問されたとき、どう答えるだろうか。もしかすると、いろいろな選択があったことはすぐには脳裏に浮かばないままに、「当たり前のことを当たり前にやっただけです」と謙虚に答えてしまうかもしれない。「雨が降れば傘をさせばよい。それだけのことです」という言葉になって表れるかもしれない。これが〈事後の見え〉だ。そのつぶやきも吹き出しに入れて図2に示している。

 そうなのだ。〈t時点〉に至って〈t-1時点〉を振り返ると、いわば、ほかに選択の余地がない必然の道に見えてしまう。〈t時点〉に至るまでにあったA、B、Cといった各局面、そしてそれぞれにおける選択肢の存在を思い返して、「来た道をあらためて顧みる」反省の気持ちや、「各局面で一度でも他の選択肢を選んでおれば、今ある地点にはいなかった」という想像の広がりは、〈事後の見え〉においては働きにくい。
 ここに、〈事前の見え〉で述べた物語的理解の立場の意義があると考えられる。
 物語的理解とは、(わかりやすく単純な)科学的理解を解きほぐし、「事前の立場」ないしは「当事者の立場」に差し戻そうとする理解の立場にほかならない。それに伴って、「世の中に当たり前の道はない」という理解、つまり「ほかにも、道はありえたはず」だし「今ある現実はたまたまのものでしかない」という想像力が前面に躍り出る。

 科学的理解と物語的理解。どちらも、経営の現実を理解するうえで大切な理解の立場だ。両者の特徴は、あらためて整理すると以下の点になる。
 (1)事後の理解と事前の理解
 科学的理解の立場は、「物事が終わった後」の視点で見た理解の立場。逆に、物語的理解は「物事が始まる事前」の視点で見た立場。将来時点から見れば簡単にわかることが、その当事者にはわからない。

 (2)外部者の立場に立った理解と当事者の立場に立った理解
 現実を見る立ち位置が違う。科学的理解では、現実と距離を置いたところに位置して、いわば空を飛ぶ鳥のように現実を上から鳥瞰図的に眺める。現実と距離をとり、客観的な立場に立つことで、邪魔されず正確に現実を見ることができると考える。他方、物語的理解の場合は、現実の当事者と同じ立ち位置にある。いわば、虫の目で見た虫瞰図。鳥の目に見える道も、地表の虫には見通せない。

 (3)直線的理解と曲線的理解
 科学的理解では、原因と結果を見極め確定することが課題となる。それだけ、理解も直線的になる。たとえば、科学的理解では「王様が死に、それから王妃が心臓麻痺で死んだ」という直線的プロットに帰着する。他方、物語的理解では、「王様が死に、そして悲しみのあまり王妃が死んだ」という曲線的プロットを採用する(野家啓一「実証主義の興亡:科学哲学の視座と所見」、盛山和夫編著『現代社会学の理論と方法〈下〉』勁草書房、05年。野家啓一『物語の哲学』岩波現代文庫、05年)。
「悲しみのあまりは」は、あくまで一つの解釈であり、「自責の念から命を絶った」というプロットもまた可能である(同論文)。多様な理解曲線のうち、どれが妥当な説明かをめぐっては論争の余地があり、それに応じて(研究の世界で言うと)さまざまな「学派」が対立することになる。

 (4)必然の論理と偶有の論理(「他の道、あるいは他の現実がありえたかも……」)
 直線的理解では、「ほかでもありうる可能性(偶有性)」を見ない、いわば「必然の道」としての理解に導く。他方、曲線的理解では、「他の道も、また他の現実も、ありえたかも……」と、現実に潜在してしまったところの可能性を考慮に入れた理解となる。その点で、深い理解となる。「あそこでのあの判断(インサイト)が、結局のところ道を分けたのだ」といった経営の要諦を理解する力も生まれる(拙書『ビジネス・インサイト』岩波新書、09年)。

 (5)抽象化・標準化と想像力・共感性
 科学的理解は、現実を、高い抽象度のレベルで理解し、その理解レベルにおいて他の似た現実と比較する。つまり、モデル化志向だ。他方、物語的理解では、かけがえのない〈この現実〉が扱われる。高い抽象度で把握しようとする志向は乏しい。その現実は、他の現実と比較するすべのない現実である。だが、その現実についての理解は深い。「他のありえた可能性」に向けて想像力は羽ばたくからだ。同時に、この現実やこの現実が生まれた経緯に対して、当事者の立場に立つことで手触り感のある理解ができる。この現実ないしはこの現実を創り上げてきた人々を、共感しながら理解することができる。


原因と結果を見極める
「科学的理解」の限界


 両者の特徴をまとめて図に表すと、以下のようになる。
 図3は、紹介してきた二つの理解の仕方があることだけでなく、理解の中核には物語的理解があり、その表層部分に科学的理解があることを図式化している。

 科学的理解は、現実に働く因果的な関係を仮想することで、快刀乱麻を断つごとく現実を切り、われわれに一つの現実の成り立ち(の可能性)を示す。その結論は、「商品鮮度問題が売り上げ不振を引き起こし、それが理由で、カルビーは鮮度管理概念を手に入れた」(石井淳蔵「売れない時代に必要なのは理系脳か文系脳か」プレジデント10年3月15日号)といったように、点と点を直線で結んだような理解に到達する。単純明快だ。人に伝えやすいし、わかりやすい。少ない概念で表される現実像であるので、「他の現実との比較」も容易だ。そういう点で、科学的理解は、現実社会の理解のための「出発点」としては便利だ。
 だが、その科学的理解を解きほぐして、〈事前の見え〉ないしは現実の形成に関わった〈当事者の見え〉にもう一度差し戻すことで、あらためて見えてくるものがある。それは、曲線的な物語として紡ぎ出される理解である。〈現実の当事者の見え〉、それも〈事前の見え〉を背景にしているので、「自分なら、どうするか?」といったふうに、物語られている現実の成り立ちを、自分の立場に置き換えて考えることができる。それを通じて、物語の登場人物への共感も生まれる。それが、「腹に落ちた理解」や「揺るぎのない実践的指針」を与える。科学的理解のレベルでは、残念ながら、そこまでの深い理解が生まれることはない。

 
 
PRESIDENT 2010年5.17号
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