職場の心理学 [239]

「長期雇用」×「全員底上げ」
ドコモ式能力開発の秘密

 
 

分社18年で従業員が1800人から2万人以上に増えたNTTドコモ。
給与や昇進・昇格に差をつけない「全員野球」を標榜する同社において、
社員のやる気を保つ秘訣は“仕事の与え方”にあった。

 
 

ジャーナリスト
溝上憲文=文
text by Norifumi Mizoue
●みぞうえ・のりふみ 1958年、鹿児島県生まれ。明治大学政経学部卒業。経済誌記者などを経て独立。経営、ビジネス、人事、賃金、年金問題を中心テーマとして活躍中。著書に『「いらない社員」はこう決まる』『年金革命』『隣りの成果主義』などがある。

高橋常政=イラストレーション

 
 

2万人の大組織に
ベンチャー精神を根づかせるには


 老舗の巨大企業が分社して新規事業に進出する場合、成功する秘訣とは何か──。
 資本力や技術力にも増して重要なのが「人材力」だ。何より長年染みついた本体依存のしがらみ体質を払拭しなければならない。人材活用の成否は、旧文化・風土に代わる新たな理念の下、いかに社員を結束し、チャレンジブルな体質を構築できるかにかかっている。
 一つの解を1992年にNTTから分社したNTTドコモに求めることができる。独立当時、1800人にすぎなかった社員は今や、グループで2万人を超え、営業収益4兆4480億円、営業利益8310億円(2008年度)を誇る企業に成長した。
 社員はもともと電電公社という親方日の丸体質の会社の出身である。創業時の主な収益源はポケットベルだった。移籍した社員にとっては「30万人の会社から1800人の会社に移り、誰もが、えらく小さな会社だなと感じた」(田中隆取締役執行役員・人事部長)としても無理はない。
 しかも新しい会社の名前が「ドコモ」。do communications over the mobile network(モバイルネットワークで豊かなコミュニケーション)の頭文字をとって命名したものだが、珍妙な名前に社内外に違和感を持つ人も多く「NTTの子どもだからドコモか」と揶揄されたこともあった。

 そうした状況下にもかかわらず、何が社員を駆り立て、これだけの成長を遂げられたのか。一つは「いつでも、どこでも、誰とでもつながる新しいコミュニケーション文化の創造」という企業理念への共鳴であり、もう一つは、意欲の受け皿となる仕事の中身にあったと田中部長は指摘する。
「人が少ないために、仕事の分量はものすごくありました。少なくともムダと思われる仕事はやらないというよりできない。仕事の中身も一担当者レベルでも、一つあるいは二つ上のポストの仕事をしていましたし、決定権も各人にあり、いちおう上司に相談しますが『おまえに任せるよ』とよく言われました。仕事にやりがいを感じていましたし、その中から自分で考え、自分で行動するという風土が醸成されてきました」
 とりわけ当時は携帯電話普及の草創期であり、決められたルールに則って動く30万人の組織では味わえない仕事のダイナミックさ、あるいは「同じ仕事でも与えられたものではなく、相談できる人が少なく『やるのは俺しかいない』と思ってやった」(田中部長)という仕事に対する姿勢が成長の原動力にもなった。

 創業期の躍進を支えたベンチャースピリッツは、今でも「なにかやってやろう!」というチャレンジ精神となり同社のDNAとして受け継がれていると田中部長は語る。
 しかし、そうはいっても2万人の大組織になり、業務の細分化が進むと、好むと好まざるとにかかわらず社員の存在感が組織に埋没しかねない。いかに社員の主体性を尊重し、仕事への意欲を持続・発展させていく職場環境を生み出していくかが問われる。
 それを実現するための人事制度を貫く方針は「社員全員に成長の機会を等しく付与し、全体の底上げを図る」というものだ。一言でいえば「全員野球の精神」といってもいいだろう。
 たとえば入社後のジョブローテーションもその一つだ。入社後の3年間は、数カ月のドコモショップでの研修をはじめ各支店で顧客対応などの現場を経験する。その後本社に戻り、さまざまな部署での経験を3年間経て、再び支店業務をはじめグループ会社への出向や海外業務などを3年間行うというキャリアパスを描いている。
 もちろん最初の3年間の支店業務は現場重視の姿勢の表れとして理解できるが、その後、全員を3年間本社に戻す意味はどこにあるのか。
「新入社員は一生懸命に働きますし、支店で1年半も経つと戦力になります。確かに支店からすればちょうど一人前になったところで本社に抜かれる感覚があると思います。だが、新人の多くは自分は移動通信業界を動かしたい、できれば本社で働きたいという思いがあります。一部の人間だけが本社に行くとなると、『あいつが本社に戻り、なぜ自分だけが支店にいなくてはならないのか』と思う人もいるわけです。別段、本社がそれほどのものでもないのですが、その気持ちは理解できますし、本社での経験を積ませてやろうということです」(田中部長)
 新規採用数の多い大手企業ほど、配属先のエゴもあって希望部署への異動が叶わず、疑心暗鬼にかられた末に転職する社員がいるのは事実だ。同社の場合はキャリアパスを目に見える形で示すことで、本人が目指すキャリアの実現を支援していこうということだ。


昇格が遅れても
再チャレンジのチャンスあり


 ちなみに旧電電公社や国鉄時代には、国家公務員のキャリアに近い「本社採用」の新卒者は他の大卒に比べて昇進のスピードが速く、入社時点で格差がついていた。もちろん今はそういう仕組みはない。また、比較的離職率が高いとされる情報通信業界にあって同社の離職率は低い。09年入社の社員で辞めた社員はわずか一人で、社員全体での離職率も1%強という低さである。
 全員野球の精神は入社後のジョブローテーションだけではない。「昇進・昇格」「給与」「雇用」の三つでも貫かれている。
 一般的に役職(ポスト)と給与の額は連動しているが、同社の場合は、給与は社内資格(等級)と連動し、資格と役職とは必ずしも一致させていない。これは職能資格等級と呼ばれる日本企業の年功的な給与決定方式だが、競争の激しいIT・通信業界にあって今でも堅持している企業は珍しい。
 当然、優秀な人材でも昇格が難しく、抜擢人事も少ないという問題点も残る。しかし、同社は資格や年齢に関係なく役職に就けるなど“仕事の与え方”でモチベーションを引き出す手法をとる。
「仕事を任せるのに必ずしも資格にこだわらず、たとえば前任者がやっていた仕事を一つ下の資格の社員が担当することもあるし、その逆もあります。極端にいえば、部長になっても昇格とは別であり、給料が上がるわけではありません。こいつはと思う人間に、一歩上の仕事をやらせて期待通りの成果を出せば、次の昇格のタイミングで上げる可能性はあります」(田中部長)

 同社は20代後半から新規事業を担当させることで知られる。若くして重要な仕事を与えることで本人の意欲と能力を引き出す風土は今も健在である。
 もちろん、年功的とはいっても「昇格基準」はある。過去数期の人事評価で一定の評価ポイントに達した者を昇格させるという他社同様のルールを設けている。この基準により同期との差が徐々に開き、昇格が遅れた社員はなかなか這い上がれないというのが日本的企業の組織風土でもあった。
 しかし、田中部長は昇格が遅れた社員に再チャレンジの機会を与えることが重要だと指摘する。
「昇格が遅れたら遅れたままというのでは当然モチベーションも下がります。また、人事評価にしても評価するのは上長ですから人事部が全部見ているわけではありません。たとえば上司とちょっとうまくいかなかった、あるいは仕事が合わなかったために遅れている可能性もあるわけです。昇格が遅れていても、異動先では努力して、それなりの成果と評価を得ている人など、研修を含めたいろんなアセスメントを通じて、この人ならと思えば追いつかせていいだろうし、そうしていきたいと思っています」
 昇格する、しないは評価もさることながら、働く意欲など個人の事情も大きい。再チャレンジの機会をつくることで社員のモチベーションの底上げを図りたいという思いがある。


給与に格差をつけず、
あくまでも「全員野球」を貫く


 昇格に限らず給与も格差が開きすぎると、給与の低い社員のモチベーションが下がる可能性もある。近年の成果主義批判も格差拡大による弊害としての生産性の低下という観点から論じられている。じつは同社も管理職のボーナスについては成果業績評価に基づく厳格な配分を行っていた。ボーナス原資の枠内で部署ごとに社員の優劣を明確化した評価分布に基づいて金額を付与することになるが、いやが応でも格差が生じる仕組みであった。そうなると、業績を定量化できない、あるいは人数が少ない部署ではどうしても不満が発生する。
 そのため数年前に制度を見直し、原資の枠内で、評価の配分の仕組みを組織長の裁量に任せることにした。結果的に部署によっては、あまり格差を生じさせない配分にすることも想定されるが、組織長にはおおむね好評という。
「以前は高い評価の人と低い評価の人との差がつきすぎていたために、評価のフィードバックも難しい面がありました。売り上げなどの数字で目標を立てられる部署はやりやすいでしょうが、数字に表れない部署をどうしていくかという課題もあります。最終的には組織長の裁量に任せることで部内の社員の納得が得られればいいのではないかと考えています」(田中部長)

 昇格格差が開きすぎる問題点の指摘と同様に、給与にメリハリをつけることにも必ずしも与しない。こうした考え方に異論を唱える人もいるだろう。とりわけ外資系企業に代表される成果業績を重視する企業であれば、パフォーマンスを正確に評価し、貢献度の高い社員に多くの報酬とふさわしい地位を与えることで仕事に対する意欲を高めることが本当だろうと反論する向きもあるかもしれない。
 こうした意見に対して田中部長は「確かにパフォーマンスが高い人間と低い人間は出るし、高い人間に対して相応の報酬を支払う会社もあるだろう。『自分はこれだけやっているのにドコモにいてはこの額しかもらえない』と言って出ていく優秀な社員がいてもしょうがないと思っている。もちろん残念ではあるが」とあえて否定しない。

 同社がこだわるのは、あくまで「社員全員の底上げ」であり、全員野球を貫くことが会社の成長につながるとの確信がある。田中部長が社内研修の冒頭でよく口にするのは「一人ひとりががんばっているからこそ会社は成り立っている。それを忘れずに仕事をしてほしい」というメッセージだ。
「私は一人ひとりが最大限の力を発揮することが会社のためになると思っています。あまり変にメリハリをつけようとするよりも、ある意味では少しぬるま湯的といわれるかもしれないが、やはり生活があっての仕事であり、家族や職場の人間関係、何より経済的基盤がある程度しっかりしているからこそ会社で活躍できるんじゃないかと思っています」(田中部長)
 いたずらに給与や役職にメリハリをつけて処遇するよりは社員一人ひとりに生活基盤の安定を付与し、そのうえで社員が力を発揮することが会社の長期的成長をもたらすということだ。

 業績至上主義の企業では高い処遇を受ける優秀な社員と同時に低い処遇に甘んじざるをえないバッドパフォーマーも発生する。バッドパフォーマーの存在は組織活力の低下をもたらすために、必然的に会社からの退出を促すことになる。いうまでもなくNTTドコモは対極にあり、社員の底上げを常に図りながら長期にわたって会社に貢献してもらう長期雇用を標榜する。
「少なくとも当社は終身雇用を前提としており、社員が長期にわたって活躍してくれる仕組みはつくっています。基本的に社会に反するようなことをしない限りクビにするようなことはありません」(田中部長)
 量的拡大を収益源にしてきた携帯電話の加入件数はすでに1億件を超え、今、国内市場は飽和状態にあるといってもいい。従来のビジネスモデルは大きな転換点を迎え、携帯各社は次なる成長戦略の強化に乗り出している。厳しい競争環境の中で、“全員野球”の人事哲学を武器にいかに社員の活力を引き出し、飛躍していくことができるのか、今後がじつに興味深い。


 
 
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