職場の心理学 [231]
良寛さんに学ぶ 働きがいを持てる人、持てない人
時々刻々と変わる状況下において、
常に揺らがない「心」を保つ智慧を禅の教えに請う。
「二元論的思考」から脱却すれば、
どんな時代でもゆうゆうと生きていけるのだ。
同じ環境でも
満ち足りる人と不満な人がいる
サブプライム問題に端を発する経済危機が叫ばれ始めてから1年ほどが過ぎました。この間、リストラ、減少する年収、不安定な生活に不安を感じるビジネスマンが増えていることと思います。わたしたちは、なぜ、こんなに、お金が少なくなることに心を惑わされてしまうのでしょうか。お金の価値と働きがい、仕事のやりがいについて、どんなふうに考えたらよいのでしょうか。お金の価値を感じるのも、仕事のやりがいを感じるのも、「心=ココロ」です。心という存在は、「ココロ、コロコロ」のように実体のないもので、科学的に「心とはこれである」と解明されているものではありません。
「勝った・負けた」「得した・損した」といって一喜一憂するのも心、そのあらわれ方は百人百様です。同じような環境にあっても満ち足りた気分になる人もいれば、おおいに不満を覚える人もいます。お城のような邸宅で暮らし、毎日ご馳走三昧でも幸福感がやってこない人もいれば、極貧生活の中にも楽しみを見出し、麦飯と味噌汁だけの質素な食事をしみじみ味わえる人もいます。そう考えると、豊かな不満社会に生きる現代の日本人は、環境にかかわらず概して不満傾向にあるといえるのではないでしょうか。
それでは、職場でも家庭でも、移ろいゆくさまざまな場面で、環境やモノに左右されず、豊かな心を保ち、充実した生をまっとうするためには、わたしたちはどのように考え、日々を送っていけばよいのでしょうか。それなりにいい家に住み、いい車に乗り、いい服を着てブランド品をたくさん持っていても、不満は不満、そして不安は不安。心がそう感じる理由を解き明かしていく前に、ぜひとも耳を傾けていただきたい言葉があります。
「道(どう)は貧道(ひんどう)より尊(たっと)きはなし」
これは江戸中期の禅の中興の祖・白隠禅師の言葉で、意味は「たとえどんなに貧しくても、その日暮らしであろうとも、心だけは王侯貴族のような気持ちでありたい」。つまり、物質的な貧しさと心の貧しさは共にあるわけではなく、たとえお金が十分になくても、心のあり方一つで働きがいを得られ豊かになれるということです。
「道は貧道より」の言葉から思い浮かぶのが、私も尊敬する偉人の一人、あの良寛さんです。
良寛和尚(1758~1831)は、乞食坊主と呼ばれるほど質素に暮らした隠遁僧で、一つの鍋で顔も手足も洗い、煮炊きもしたという逸話が伝えられています。“五合庵”と呼ばれる草庵に暮らし、厳しい自然と孤独と向き合いながらも、天井が抜けて上から月影が差し込めば、その月を愛でながら、
「あー、今夜の月はいい月です。清々しい風が身にしみる」といったそうです。まさに天地と我と同根(同じ)といった心境から、思わず知らずに出た言葉なのでしょう。僧侶であっても生涯寺を持たず、経も読まず、財産・名誉など世間のわずらわしいことにはいっさい関わらず、詩歌を詠んだり子供たちとかくれんぼをして遊んだり。派手な仕事はしなくとも、その精神の状態はまことに見事なものです。
現代の人々が良寛の生活になんとなく惹かれるのはなぜでしょう。たぶん、乏しい物的環境を悠然と超え、まさに王侯をもはるかに凌ぐような心の豊かさを保持し続けたところに親しみと共感を覚えるからではないでしょうか。
「活計(かっけい)なしと雖(いえど)も、敢(あ)えて与(とも)に闘わしむ」とは、禅の公案集『無門関』の第十則「清税孤貧」に記された言葉です。これは人を驚かすような大きな働きはないけれども、その精神の状態はまことに見事なものであるという意味で、まさに良寛和尚の生き様と重なります。
『たそがれ清兵衛』の心の核にある
「教養、度量、器量」
モノを持たず、欲も持たず、自由な精神を貫いたのが良寛和尚ですが、同じ時代に生きた武士の精神性をあらわす言葉に「武士は食わねど高楊枝」があります。単に「貧しくてもカッコだけはつけてしまう」と解釈をする人がいますが、もっと深い意味があります。この言葉は「武士は、たとえ貧しくても食えなくても、十分食べ足りたようなフリをして楊枝をゆうゆうと使い、身を清潔に保とうとする」武士の誇り高さをたたえたもので、日本人が本来持っていた心ばえを示しています。
江戸の中期以降ともなると貧しい武士が増え、俸禄をほとんどもらえない下級武士たちは内職をしたり、畑仕事をして何とか食いつないでいました。
「100石(俵)六人泣き暮らし」は武士の貧乏暮らしをあらわす言葉で100石の禄から藩に納める分を差し引けば、残りはわずか。家族と使用人がぎりぎり暮らせる程度しか手元に残らなかったそうです。しかし町人や商人のほうが経済的な余裕があったにもかかわらず、武士たちはプライドと高い精神性を保っていました。
藤沢周平原作の映画『たそがれ清兵衛』にも、こうした幕末の下級武士の世界が描かれています。主人公の清兵衛は、家族を支えるために城中の仕事が終われば“たそがれどき”にさっさと帰宅し、夜は虫かご作りの内職に励み、庭に畑を作って野菜を育て、いつもほころびた着物を着ていました。ただし、心は決して貧しくありません。畑の野菜や草花が日々育っていくのを見ては楽しみ、娘が成長していくのを楽しみ、貧しいながらも日々の生活を楽しんでいました。
経済的に苦しくとも、たとえ粥をすすりながらでも、武士が誇り高く生きられた背景には、やはり精神的な修業の積み重ねがあったのでしょう。彼らは心の核となる「教養、度量、器量」という財産を内面に備えていました。その財産を活かして草木をしみじみ味わったり、これを題材に気の利いた俳句や和歌を詠むこともできました。それが武士としての生きがいに通じていたのです。
また、当時はお金を儲ける人が敬われていたわけではなく、お金のある、なしで勝ち組・負け組の線引きをするという発想もありませんでした。物質的な富はなくても高い教養を身につけた武士は、尊敬の的となっていたのです。心の核である教養、度量、器量がないとついお金やモノに心が引きずられて貧しくなってしまいます。貧しいことを「不幸」や「負け」とすぐ結びつけてしまう心の習慣によって、苦しみが生まれます。かつて、作家の司馬遼太郎氏は、「規範がないことがこの国の悲劇である」といっていましたが、その「規範」とはいまの日本人がなくしてしまった信念、志、道義のようなものです。いまこそ見直していきたいのがこの規範、「武士は食わねど高楊枝」に見る日本人の精神なのです。
「二元論的思考」から自由になれば、
心は定着する
お金やモノに流されずいつも清々しく豊かな心を持ち続けるということは、できそうでなかなかできないことです。なぜなら、わたしたち人間は「二元論的思考」をする生き物だからです。二元論とはモノと心、善と悪、金持ちと貧乏、好きと嫌い、失敗と成功、エリートと落ちこぼれ、勝ち組と負け組というように対立する概念で物事を捉えることで、白と黒の間のグレーゾーンはありません。
この二元論的思考が根底にあると、私たちは凝り固まった小さなモノサシや自分の価値観に振り回されることになります。「富と貧」「勝ちと負け」を区別して比べる心です。両者を対極において見るために「勝ち」になれない自分が苦しくなってしまうのです。
しかし、「AかBか」と分けて比較したり、「Aのほうがいい」「Bのほうがいい」と決めつける思考法のクセは、変えたいと思っても一朝一夕でチェンジできるものではありません。30歳の人なら、その年齢分だけ同じ価値観の中で生きてきたのだから無理もないことです。そこで、二元対立の中でさ迷うことになります。目に見えない「二元対立の檻」を気にして周囲をキョロキョロしているうちに本来の自己を見失い、不安に満ちた生活を強いられることになるでしょう。
元来、禅の世界では二元対立を嫌い、排していきます。そして絶対の主体性を目指します。ここで強調しておきたいのは、皆さんがとらわれている考え方、判断の仕方などは、実はすべてあなたの周りが勝手に創り上げた既成概念、いわば「雲」のようなものにすぎないということです。この既成概念による小さなモノサシを破壊しないかぎり、心の改革はなされません。
「モノ」や「お金」の量にかかわらず「なんだか満たされない」のは、物質社会がつくり上げた既成概念に縛られすぎているために、本来得ている働きがいや生きがいに気づけなくなっているからです。他人の常識、社会の常識を軸に物事を考えたり行動するために、内面が空虚になってしまうのです。
もちろん、人間が生活していくうえでモノもお金も欠かせません。なくては困るものです。科学と技術の発達に伴って便利なモノが大量生産されることは生活レベルを高め、人類全体の福祉の増進にも寄与することができます。モノやお金が幸せな気分を運んできてくれることも確かです。ただし、モノやお金は膨らみすぎると羨望や奪い合いの対象にもなり、欲望を際限なく膨らませていけば利己的な心が生まれます。少しでも多くのモノを自分で得ようとして対立や葛藤が生まれます。
こうなると、心の成長に歯止めがかけられ“マイナス成長”を始めることもあります。心がビンボーになったこの状態では、結局「○○があるから幸せ」というモノに操られた偽りの幸せしか得られなくなってしまいます。本当は幸福の決定権はモノにあるのではなく、やりがいや生きがいをつくり出そうとする自己の心にのみあります。そしてわたしたちの心が真に満たされるとき、モノと心は対立した関係ではなく一つになっているはずなのです。
たとえば秋、燃えさかる紅葉の美しさに惹かれ、路上で思わず足を止めることがあります。
「なんてきれいなんだろう……」
紅葉の風景に浸りきっているとき、五感がその色、香り、形をとらえ、深い安らぎに包まれます。そのとき、皆さんの心は周囲の自然と解け合い一つになっています。自然を愛し、自然と共に暮らした良寛さんは、このような時間をたくさん持っていたはずです。
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