職場の心理学 [219]
旭化成の結論
「会社は従業員のもの」
戦後4度の不況を乗り越えた労使の信頼関係、
そして、得意先に
「どちらが上司でどちらが部下かわからない」
といわれるほど親密な上下関係は
どうやって築き上げられたのか。
組合員が賞与を社内預金に回し、
資金不足を乗り切る
未曾有といわれる不況下で日本的経営を支えてきた「従業員主権」が揺らいでいる。従業員主権はいうまでもなく株主主権に対置されるもので、働く人々を企業の競争力の源泉と見なし、その具体的担保として雇用の確保・継続を保証する考え方である。その真価が問われるのは現在の過剰雇用期であるが、それに耐えきれずに一気に外部労働市場に吐き出す企業が増えている。
もちろん大不況は今回が初めてではない。いくたびかの不況に直面し、事業再生を模索しながらも雇用を最大限守り抜いてきた企業もある。総合化学メーカーの旭化成もその一つだ。同社は戦後の1948年の大争議を経て労使協調路線に転換。以降3度の不況を乗り切ってきた。
57年の生産量を半分にまで落とした「化繊5割操短」では3700人の社員を順に一時帰休させる措置をとったが、翌年には全員を復職させている。
「もちろん会社を休むと給与が減ることになります。労働組合も組合員を一人ひとり励ましながら一時帰休に踏み切り、同業他社が希望退職を募集するなかで当社だけは全員を復帰させたのです。これ以来、雇用を守ることが労使の共通の思いとして定着してきたのです」(取締役常務執行役員・辻田清人財・労務部長)
今日のワークシェアリングの先駆けである。雇用確保で築かれた労使の信頼関係は、61年のカシミロン不況や73年のオイルショックのときにも貫かれた。アクリル繊維カシミロンの不振で資金不足に陥った経営を救うために組合員が賞与の2割を社内預金することで資金を拠出し、危機を突破している。オイルショック時の一時休業の際には労使で「福祉共済会」を発足、医療保険や子供の育英資金の貸し付けなど社員の生活を守る仕組みをいち早く設置した。
会社の窮地は雇用の危機でもある。労使が痛みを分かち合い、一丸となって苦境を乗り越えてきた企業にとって、会社は株主のものではなく、経営陣も含めた働く人々のもの(従業員主権)と考えるのはごく自然の発想だろう。
旭化成は2006年に従来の考え方をベースに「人財理念」を再構築した。そこには会社が全社員およびリーダーに求める行動が列挙されているが、冒頭に「会社が約束すること」としてこう明記されている。〈旭化成グループの人財が、働きがいを感じ、いきいきと活躍できる場を提供し、グループの成長と発展を目指す〉。
「人財が最大の資産」と位置づける同社の姿勢を宣言したものだが、内容については「ここまでいうべきか議論にはなったが、従業員に求める以上、会社も覚悟して宣言しよう」(辻田部長)と踏み切ったものだ。
しかし、雇用確保を基軸に「働きがいを感じ、いきいきと活躍できる場を提供」しつつ、成長を持続していくことは激しいグローバル競争下では容易なことではない。そこで同社が成長を促すインフラとして実施した最大の組織改革が03年の「分社・持ち株会社制」への移行だった。持ち株会社制は企業合併のソフトランディングの手段として使われることが多いが、同社は持ち株会社の傘下に中核事業部門を分社化し、「自主自立経営」と「スピード経営」の徹底を目指した。
同社の事業はもともと繊維が中核を占めていたが、繊維不況などの産業・経済環境の変化に対応すべく事業の多角化を推進。繊維からケミカル、電子部品、医薬・医療、住宅・建材に至るまで事業領域が大幅に拡大した。変化に先んじて新事業を開拓し、企業の存続・発展を図ろうとする同社の進取の気性を示すものだが、半面「自分の所属する事業部門が赤字でも、他の事業の利益で賞与も出るし、あまり痛みも感じないまま事業を続けるというもたれ合いの体質も生まれる」(辻田部長)土壌も存在した。
加えて経営の意思決定においても当時は各事業部門の代表を含めて30人ほどの取締役がいたが、自分の専門分野の議論はできても専門外の案件では同レベルでの議論や意思決定が難しいという問題も生じていた。
「もたれ合いの構造をなくすには、事業会社独自でキャッシュフローを重視し、どこに投資するかも含めて権限と責任を与えるほうがよいと考えたのです。監督は持ち株会社がやるが、執行は事業会社に委譲することで迅速な意思決定によるスピード経営を目指したのです」(辻田部長)
たとえば自主自立経営を徹底するために、持ち株会社の役員が事業会社の社長を兼務せず、事業に集中できるようにした。また、事業会社の社員も「甘えをなくしその会社の人間になりきって働いてもらう」(辻田部長)という観点から持ち株会社からの出向ではなく全員を転籍させた。
分社化の効果は、遠心力と
求心力のバランス次第
しかし、自主自立はいいが、分社化することで人事ローテーションが困難になるなど会社間にカベが生まれ、結果としてグループとしての一体的事業の運営を阻害することにもなりかねない。事実、当時同業他社からそうした批判を浴びている。そのリスクを回避し、事業の成長と発展を図るには、事業経営の独立性を高める「遠心力」とグループとしての一体感を保持する「求心力」とのバランスをいかにとるかが重要になる。旭化成はこの点において独創的な仕組みを構築した。
持ち株会社の役割としてグループ全体の戦略を立案するとともに、ヒト、モノ、カネなどグループ資源の最適配分とグループの経営執行の監督を行う。同時に新事業の芽を育成するインキュベーターの役割を持ち株会社が担うことにした。
その役割を果たす具体的な機能の一つが持ち株会社の諮問機関である経営戦略会議だ。事業会社ごとに独自の裁量で使える投資金額が決まっているが、その額を超える大型案件について各事業領域のトップと持ち株会社が協議・決定する。また、事業会社の毎年の予算など経営計画の進捗状況を四半期ごとに持ち株会社社長が確認する「事業インタビュー」を実施している。
求心力を担保するには“人事”も重要だ。事業会社の事業部長以上の人事権を持ち株会社の社長が持ち、部長以下の人事権は事業会社が持つ。事業部長以上の人事については事業会社の社長が起案し、毎年12月から翌年2月にかけて持ち株会社の社長と話し合いながら決める「人事インタビュー」を実施している。
事業会社の部・課長の人事権は事業会社にあると述べたが、人事、経理、知的財産などの職能ごとの育成と配置の権限は持ち株会社が握り、横串を一本通している。たとえば事業会社ごとに人事部があり、人事考課は各事業会社が行うが、人事部長については事業会社の社長だけでなく、持ち株会社の辻田部長もチェックするなど「遠心力を働かせながら求心力も同時に保つ」(辻田部長)運用を行う。さらに持ち株会社の人財・労務部長が事業会社の人事部員の配置権を持ち、事業会社を超えた異動を行っている。
求心力を高める機能として、グループの人事部長クラスが月1~2回集まり、人事異動を含めて検討する「人事責任者会議」を設置している。これとは別にグループの課長クラス以上で構成する「グループ人事会議」を定期的に開催しているが「人事部員の育成やローテーション、研修内容を含めた人財育成体系の検討など物事を決めるときに課長クラスも入れて議論することで参画意識を醸成し、グループの求心力を保つ」(辻田部長)狙いもある。
会社間をまたがる人事異動は頻繁に実施されている。同社は人事に関する基本方針として「人財育成、適材適所、雇用の確保に必要な場合は、従業員は事業会社・持ち株会社の枠を超えて異動する」と謳っている。グループ内の人的資源の活性化のうえで人財育成、適材適所は重要だが、事業の統廃合などが発生した場合は「別の事業会社に異動することで雇用確保する。すでに小さな事業を廃止したケースで異動させたことがある」(辻田部長)という。
事業会社・持ち株会社間の異動は法律上退職して入社する転籍になり、本人の同意を必要とするが、持ち株会社制に移行してから一人も拒否した社員はいないという。会社の命令による異動だけではなく、自主的なキャリア形成の観点から本人の申告で異動できる「公募人事制度」もある。各事業会社が年に4回人材を募集し、現職で3年以上働いている社員であれば応募できる。03年10月以降の計19回の募集人員は約400人。うち合格して異動した社員は約120人に上る。
会長に「さんづけ」
上下にとらわれない
コミュニケーション
人材育成においても、事業会社経営に必要な人材の育成は事業会社に任せる一方、経営人材や専門職能人材の育成は持ち株会社が行うなど役割を明確に分けている。
時代環境の変化に応じてグループの資源の最適配分を可能にする遠心力と求心力のバランス経営の仕組みは同社が独自に生み出したものである。しかしハードだけで機能するものではない。そこに魂を吹き込むには社員の意識改革を促すソフトの戦略も不可欠だ。
その一つが前述した「旭化成グループ人財理念」の浸透だ。そこでは、全社員に求める行動として「挑戦し、変化し続ける」「誠実に、責任感を持って行動する」「多様性を尊重する」──の三つを掲げ、リーダーに対しては「活力ある組織をつくり、成果をあげる」「既成の枠組みを超えて発想し、行動する」「メンバーの成長に責任を持つ」──の3つを求めている。
これらは新たにつくりだしたものばかりではなく、同社に受け継がれてきたDNAも含まれている。たとえば不況に遭遇しても石化事業や住宅事業など数々の新分野に挑み続けて成功させた「挑戦する心」は同社の持ち味でもある。また、上下にとらわれない自由闊達なコミュニケーションも同社の強みである。それを象徴する事例の一つが40年以上前から続けている「さんづけ」だ。
「たとえば当社の会長に『山口会長』といったら、いい直させられるのです。山口さんと呼びなさいと。役職名で呼ぶことはないので、たとえばひねた感じの部下と上司がよその会社を訪問すると、そこの会社の人からはどっちが上司かわからないとよくいわれます」(辻田部長)
そのほかにも社内での中元歳暮の廃止、役員の子弟の不採用など上下関係にとらわれない風土が伝統となっている。ユニークなのは「先輩のいうことに反対せよ」だ。
「私が入社したときに課長から『先輩のいうことにまず反対しろ、理由は後から考えればいいんだ』といわれたのです。普段から、人がいうことが本当に正しいかを自分なりに考えて、持論があるならちゃんと展開しなさいということです。それ以来、私も結構いいたいことをいってきていますし、逆に自分の意見と違う、異論をいってくれる部下が好きですね」(辻田部長)
上下に関係ない自由闊達な雰囲気だけではなく、人を育てる姿勢を示す象徴的な事例だ。それはリーダーに求める行動のうち、活力ある組織づくり、メンバーの成長に責任を持つ──の二つを掲げていることからもうかがえる。
さらにもう一つの「既成の枠組みを超えて発想し、行動する」には「過去の成功体験にこだわっているといずれ失敗するかもしれない。リーダーは常に既成の枠組み、組織の壁や立場を超えて行動してほしい」(辻田部長)という思いがある。
分社・持ち株会社制は同じ社員を別会社に転籍させる荒療治である。前述したようにややもするとセクショナリズムに陥り、グループの一体性を傷つけるリスクを伴う。しかし、そのリスクを防止する独自の経営スタイルの構築と同時に、再構築した同社のDNA(人財理念)の徹底した浸透を図ることでグループの一体性を強化してきた。少なくとも同社の業績面で見る限り、02年度は減益に陥ったが、持ち株会社に移行してからは着実に業績を伸ばしてきている。
しかし、他の企業が旭化成と同じ経営スタイルを模倣してもうまくいくとは限らない。長年築き上げてきた“従業員主権”の土壌の有無が大改革の成否を握っているように思える。







