ビジネススクール流知的武装講座 [208]

新・環境標準「セクター別方式」を世界に広めるカギ

 
 

2013年以降のポスト京都議定書に向けた新たな枠組みについて、
国際交渉が始まっている。
日本が提唱する「セクター別アプローチ」に対する筆者の期待と懸念とは──。

 
 

一橋大学大学院商学研究科教授
橘川武郎=文
text by Takeo Kikkawa
1951年生まれ。東京大学大学院経済学研究科第2種博士課程単位取得。青山学院大学助教授、東京大学社会科学研究所教授を経て、現在一橋大学大学院商学研究科教授。専攻は日本経営史、エネルギー産業論。
著書に『日本電力業発展のダイナミズム』、共著に『現代日本企業』などがある。

平原 徹=図版作成

 
 

京都議定書の落とし穴
「炭素リーケージ問題」


 2007年の国際交流会議で安倍晋三元首相は、世界全体の温室効果ガス排出量を50年までに50%減らすという「クールアース50構想」を打ち上げた。08年の洞爺湖サミットへ向けて福田康夫前首相は、日本の温室効果ガス排出量を50年までに60~80%減らすという「福田ビジョン」を提示した。二人の首相は、耳当たりのいい大型提言を遺したまま、政権を途中で投げ出して表舞台を去ったけれども、彼らが国際会議やサミットで打ち出した「クールアース50構想」や「福田ビジョン」は、日本の実質的な国際公約として、今後とも意味を持ち続ける。

「クールアース50構想」にしろ「福田ビジョン」にしろ、単純な市場メカニズムの活用だけでは、到底それを達成することができないことは明らかである。温室効果ガス排出量を50年までに50~80%削減するためには、原子力発電などの「既存の武器」を活用して時間を稼ぎつつ、省エネルギーや新エネルギー利用を飛躍的に推進する、ブレークスルーな技術革新を実現しなければならない。
 このブレークスルーな技術革新を可能にする枠組みとして、ここのところ急速に注目されるようになったのが、セクター別アプローチである。セクター別アプローチとは、温室効果ガスの排出量が多いセクター(産業・分野)ごとに、国境を越えてエネルギー効率の抜本的向上を図り、温室効果ガス排出量を大幅に削減しようとする考え方である。

 セクター別アプローチのメリットは、国ごとに温室効果ガス排出量の削減義務を設定した、京都議定書の枠組みが持つ落とし穴をカバーできる点にある。もし、京都議定書の枠組みに主要な温室効果ガス排出国がすべて参加していたならば、落とし穴は生じなかったかもしれない。しかし、現実は異なっていた。
 京都議定書が定めた温室効果ガス排出量削減義務の国別設定の枠組みには、自国における「豊かさ」の実現が阻害されることをおそれた中国(温室効果ガス排出量世界2位)やインド(同5位)などの新興国が、参加しなかった。一方、新興国の不参加を「不公平」だとみなしたアメリカ(同1位)は、京都議定書の枠組みから離脱した。この結果、京都議定書で削減義務を負った国々の温室効果ガス排出量の合計値は、世界全体の総排出量の3割強にとどまることになった(04年実績で計算)。
 京都議定書による温室効果ガス排出量削減義務の国別設定の枠組みに主要な温室効果ガス排出国の一部しか参加しなかったことは、いわゆる「炭素リーケージ(漏出)問題」が発生する可能性を高めた。
 温室効果ガスの中心を占めるのは二酸化炭素(CO2)であるが、京都議定書の枠組みのように排出量削減義務が課せられている国と課せられていない国とが並存する場合には、エネルギー多消費産業・部門が前者の国から後者の国へ移転することによって、結果として、世界全体のCO2排出量が増大する問題が生じうる。これが、「炭素リーケージ問題」である。

 このような現象が生じるのは、エネルギー多消費産業・部門が移出する側の排出量削減義務が課せられている国(例えば日本)のほうが、移入する側の義務が課せられていない国(例えば中国)よりも、総じてエネルギー効率が高いからである。この「炭素リーケージ問題」は、京都議定書の枠組みが持つ重大な落とし穴だと言うことができる。
 これに対して、セクター別アプローチの場合には、国ごとではなくセクターごとにCO2等の温室効果ガスの排出量削減を図るため、「炭素リーケージ問題」は生じない。セクター別アプローチを採用すれば、エネルギー多消費産業・部門は、エネルギー効率がいい国(排出量削減義務が課せられている国)にとどまりながら、エネルギー効率が悪い国(排出量削減義務が課せられていない国)の同業者・同部門に対して、エネルギー効率向上に資する技術を移転することになる。

 ここで、エネルギー多消費産業・部門がエネルギー効率のいい国にとどまることが重要なのは、そのほうが、当面、世界全体のCO2排出量を抑制できるからだけでなく、将来的にも、エネルギー効率のいっそうの上昇をもたらす技術革新が進展する確率が高いからである。
 ここで、主要な温室効果ガス排出産業におけるセクター別アプローチの有効性をさぐることにしよう。まず取り上げるのは電力業であり、続いて鉄鋼業に目を向ける。
 図1は、電力業でセクター別アプローチに取り組んだ場合、30年までにCO2排出量が国・地域別でどれくらい削減されるかを、日本の電気事業連合会が試算したものである。この図は、中国・インド・OECD北米(アメリカ・カナダ)を中心にCO2排出量が大幅に削減され、その合計値は、世界全体で18.7億トンに達することを示している。05年の世界のCO2排出総量は266.9億トンであったから、その7%が、電力業におけるセクター別アプローチの実行で削減されることになる。

 電力業におけるセクター別アプローチは、
(1)既設火力発電所での運用改善、
(2)新設火力発電所での運用改善、
(3)低炭素化技術の開発・導入、
の三つの柱からなる。
 (1)は、主として発展途上国の石炭火力発電所を対象にしたものであり、技術者間の交流等を通じたベストプラクティスの国際的な水平展開(いわゆる「ピア・レビュー活動」)がカギを握る。
 (2)は、今後建設される火力発電所に、その時点で最高のエネルギー効率向上技術(BAT=Best Available Techno-logy)を導入するものであり、発電部門の「トップ・ランナー方式」と呼びうるものである。
 (3)は、石炭ガス化複合発電(IGCC)やCO2の回収・貯留(CCS)などを推進するものであり、(3)によるCO2排出量削減効果は、きわめて大きい。
 日本の電力会社は、(1)および(2)で国際的なリーダーシップを発揮するとともに、(3)にも力を入れている。


10カ国で排出量を2.5億トン削減する
日本鉄鋼業の技術


 図2は、日本の鉄鋼業におけるエネルギー効率を世界各国の鉄鋼業が達成できたとすれば、どの程度のCO2排出量削減が可能になるかを、国別にみたものである。そのような状況が実現すれば、中国・アメリカ・ロシアを中心にCO2排出量が大幅に削減され、図2に登場する10カ国のCO2排出削減可能量の合計は、2.5億トンに及ぶのである。
 日本の鉄鋼業は、1970年代の石油危機以降、工程の省略や連続化、副生ガスの回収と有効利用、大型廃熱回収設備の導入と増強、非微粘炭使用比率の拡大、資源のリサイクルなどによって、世界最高水準の省エネルギーを実現してきた。
 その結果、一貫製鉄所のエネルギー効率(石油トン/粗鋼トン)を比較すると、日本が0.59にとどまるのに対して、アメリカは0.74、カナダは0.75、イギリスは0.72、フランスは0.71、ドイツは0.69、オーストラリアは0.79、韓国は0.63、中国は0.76、インドは0.78、ロシアは0.80となる(08年のRITE調べ)。
 このような格差が存在するため、日本鉄鋼業の現在のエネルギー効率を国際的に水平展開するだけで、図2のようなCO2排出量の削減が可能になるのである。
 鉄鋼業界におけるセクター別アプローチが取り上げるのは、もちろん、既存技術の普及だけにとどまるものではない。CO2の回収・貯留、水素の製造・利用、電気精錬など、ブレークスルーな技術の開発と導入も含まれる。日本の鉄鋼各社は、このうちCCS技術と水素技術の開発に力を入れている。


「セクター別方式」実現のプロセスは
なぜ不透明なのか


 以上の二産業の事例からも明らかなように、セクター別アプローチに対しては、CO2排出量削減の切り札として、高い期待を寄せることができる。ただし、セクター別アプローチに関しては、それをどのように実行に移していくかという点で、問題が残ることも事実である。この点については、セクター別アプローチを支持する立場をとる澤昭裕東京大学教授も、「セクター別アプローチには弱点もある。その名前のとおりセクター別に合意していくため、国連の場ではなく、別の交渉の場を用意しなければならない。交渉プロセスや方式が京都議定書タイプに比べて複雑化するのが弱点だ」(『ジェトロセンサー』08年7月号5ページ)と述べている。
 もちろん、この点について、まったく手が打たれていないわけではない。すでに、世界のCO2排出量の過半を占める七カ国(日本・アメリカ・中国・インド・カナダ・韓国・オーストラリア)が参加する「クリーン開発と気候に関するアジア太平洋パートナーシップ」(APP)が05年にスタートし、セクター別アプローチの具体化を進めている。ただし、国連条約をふまえて開催される気候変動枠組条約締約国会議(COP。京都議定書は、このCOPの第3回会合で採択された)に比べると、セクター別アプローチの国際交渉の場が整っていないことは、否定できない。
 地球温暖化防止に有効ではあるが、実現のプロセスが不透明なセクター別アプローチ……我々は、それが今後、どのように展開していくか注目する必要がある。

 
 
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