職場の心理学 [208]
なぜアサヒビールの社員は1%も辞めないのか
「働きがいのある会社」全国5位、年間退職率はたったの0.9%──。
誠実で熱い人間が集まり、集団で力を発揮する同社の
会社と社員の信頼関係、社員同士の一体感の築き方に迫った。
私は社長を男に
したいと思っています
愛社精神はどうやってつくられるのか──。バブル崩壊以降、日本企業は終身雇用、年功型賃金、手厚い福利厚生といった愛社精神を支えてきた仕組みをことごとく捨ててきた。加えて会社と社員はイコールパートナーであり、意に染まなければ辞めてもいいと広言する経営者もいた。
その結果、社員の離反を招いた反省もあるのか、最近では揺り戻しによる“社員大事”経営が流行っている。しかし、いったん失われた愛社精神を一朝一夕に取り戻せるものではない。
その中にあって、今でも旺盛な愛社精神を維持しているのがアサヒビールである。それを象徴するエピソードがある。同社は昨年GPTWジャパン(Great Place to Work Institute Japan)が調査した日本における「働きがいのある会社」の5位に選ばれた。同調査はアンケートによる社員の生の声を分析して評価するもので、米国では経済誌「フォーチュン」が毎年1月に「ベスト100」を発表する著名なものだ。
そのGPTWの共同創設者のロバート・レベリング氏がアサヒビールを訪問したときのこと。現場の営業マンに会いたいという要請を受け、通訳付きのインタビューが始まった。
レベリング氏が「あなたのモチベーションとは何ですか」と質問をすると、ある営業マンは「私は社長を男にしたいと思っています」と発言。咄嗟には通訳も訳せず、なんとか説明して意味を理解したという。「社長を男にしたい」とは、まさに経営者と社員の信頼関係を象徴する日本的表現である。入賞したベスト25社の中でもとりわけ同社の社員が認識しているステートメントは「この会社で働いていることを、胸を張って人に言える」だった。
同社の丸山高見・執行役員人事部長は「当社はよく体育会的と言われますが、誠実で熱い人間が多く、集団になるとすごい力を発揮してくれる。それから愛社精神が非常に強い。調査をすると会社と経営者に対する信頼感が図抜けて高い。社員自身、経営者が自分たちのことを大事にしてくれていると感じていることが大きい」と指摘する。会社と社員の信頼の絆を示す指標の一つが退職率であるが、同社の過去1年間の自発的退職率は0.9%と極めて低い。
愛社精神を支えている要素は決して一つではない。いくつかの要素が多様に紡がれて構成されている。もちろん目に見えるものとして福利厚生も重要だろう。確かに同社は社員が自由に物件を選択できる社宅制度のほか、旅行や教育などの福利厚生メニューを自由に選べるカフェテリアプランの付与金額は年間12万ポイント(1ポイント=1円)と他社に比べても遜色のない高さを誇る。ただし、それだけではないだろう。
その一つが数十年続いている先輩と後輩の“熱い紐帯”を醸成する「ブラザー(シスター)制度」だ。同社の新入社員は4月の導入研修後に現場に仮配属され、9月の正式配属までにOJTを受ける。
その間に新入社員一人に先輩社員一人が「ブラザー」として張り付き、公私にわたり面倒を見る。ブラザーになる社員は公募で選ばれ、仮配属までの期間にリスニングなど新入社員対応プログラムを学習して臨む。もちろん、ブラザーも自分の仕事を抱えながら面倒を見ることになるが、応募者は多いという。
「ブラザー自身も先輩に教えられ、勇気づけられた経験を持っており、やりがいを感じて応募します。期間中はブラザーが責任を持って研修の手配も行い、自分の教え子なのでしっかり教えてくれとブラザーが窓口となって他の部門に依頼します。新入社員がいつもどんな状況にあるか日誌なども全部見て常にチェックし、何でも聞ける兄貴的存在になります」(丸山人事部長)
ブラザーは入社3年目から40歳ぐらいと幅広い。担当するのは4カ月ほどであるが、そこで培われたつながりは一生のつきあいに発展するという。
「社員は先輩の真似をして育ちます。私自身、先輩にさんざん世話になったし、つきあいは今でも続いています。会社が好きなのは、人間集団が好きということでもあります。いつも先輩、同僚、後輩の顔が浮かんできますし、彼らに大変世話になりながら経験を積みました。その原点がブラザー制度なのです」(丸山人事部長)
定年OBが手間ひまをかけて
若手を育成
2007年からは入社2~3年目および中途入社の社員を対象にキャリア面談を実施している。担当するキャリアアドバイザーは同社の人事部およびグループ企業の社長を経験した定年OBの二人だ。二人で全国の工場・支店を巡回し、まず上司に育成方針と課題についてヒアリングしたうえで個別に面談する。そこでは「職場では言えないような話をはじめ、OB自身の失敗談や克服してきた体験談などをまじえて相談に乗る。息子よりも若い世代ですが、OB側にも育てたいという意欲が強い」という。
決して外部のアドバイザーではない。OBによる手づくりのフォローは一体感の醸成にも貢献している。
同社の会社と社員の関係を宣言しているのがグループ人事基本方針だ。(1)挑戦・革新社員に対し、成長と能力発揮の場を提供する (2)能力を十分に発揮し、やり抜き、成果を挙げた社員に厚く報いる (3)社員の成長を推進し、グループ全体の競争力を向上させる──という三つに加えて(4)雇用確保に努める、と宣言する。
前掲のGPTWの調査では社員の生の声に「解雇による人員削減をしない」とあったが、社員を大切にするというメッセージを込めている。
さらに人事方針のキーワードとして「新・成・気・結束」を掲げる。新=新しいこと・やり方にチャレンジし続けることを支援、成=自立した個人に成長することを支援、気=志と強い気概・信念を持ち計画をやり抜いていくことを支援──を約束する。そして結束は「チームワーク。自分だけよければいいというのではなく、当社の強みである周囲を巻き込んで力を発揮することを重視」(丸山人事部長)したものだ。
たとえば新しいことにチャレンジすれば当然失敗もする。失敗すれば自己責任で減点、というのが世の風潮だがそうはしない。
「失敗しなければ本当の力はつきません。10個挑戦すれば七つや八つは失敗するものです。いちいち減点していたら成長しないし、評価を下げることもしない。失敗を恐れずに伸び伸びと成長してほしいという考えです」(丸山人事部長)
この考え方は処遇制度にも貫かれている。非管理職層の給与は資格ごとに昇給していく「能力給」一本であるが、能力評価は前述した「新・成・気・結束」のそれぞれの内容を資格ランクごとに落とし込んだ行動プロセスが大きなウエートを占める。したがって業績評価によって給与が下がることはなく「あまり大きな差をつけることなく、じっくりと育成していく」(丸山人事部長)ことを主眼としている。
とはいっても決して年功型の処遇制度ではない。管理職層は上位になるほど業績評価のウエートが大きくなる。しかも能力ではなく、任用された仕事の役割や職責の重さに基づく役割給制度を05年に導入している。たとえば部長であっても役割を果たせなければ課長職に“降格”し、給与も下がる仕組みにした。
これにより優秀な若手の登用が可能になる。その結果、管理職になるのは従来40歳前後だったが、現在では最短で34~35歳に下がっている。また、最上位の部長・支社長クラスの最年少は41~42歳という。
この役割に基づく処遇制度は大手企業の主流になりつつあるが、同社の特徴は役割給以外に能力の伸長に基づく資格給を残していることだ。つまり部長職から課長職に降格しても資格給は下がることはない。役割給と資格給のウエートは60%対40%、年収ベースでは75%対25%の比率である。
「資格制度を完全になくしてしまうと極端に給与が変動してしまうため、変わらない部分として一部資格給を残すことにしました。あまりにも成果型の給与に偏るのがいいのかという判断もありました」(丸山人事部長)
成果に基づき昇給・昇格のメリハリをつける成果主義の考え方の背景には、仮に減給・降格された場合、社員の奮起を促し、再チャレンジしてほしいとの期待がある。しかし誰しもそうなるとは限らない。欧米流の合理的思考の持ち主ならともかく、日本的企業風土では極端な成果型給与は意欲の減退も招きかねない。資格給を残したのは、制度のもたらす副作用を考慮した同社ならではの微妙な配慮といえる。
一定の安定的給与の保障に加えて、若手を登用するといっても安易に成果・業績だけで昇格させることはしない。ポストへの登用に際しては所属部門の情報や労働組合などあらゆる情報を集めて慎重に検討する。なかでも年上の社員を上手に使えるかどうかを重視する。
「目上の人を上手に使える人間こそ伸びると思っています。若い管理職に常に言っているのは、ものの言い方に気をつけろ、年上というのは絶対的価値であり、君たちは業務の遂行能力などで評価されたかもしれないが、人間の価値とは別に何も関係ないと。年上の部下に対しても、もちろん言いたいことは言わないといけないが、丁寧に接してモチベーションを上げて、一緒にやってもらうような状況をつくる人間が上位に進めると言っています」(丸山人事部長)
部下育成は
上司の最大のミッション
会社や経営者に対する社員の信頼や一体感醸成の要となるのが管理職だ。同社が最も力を入れているのは管理職を中心とする幹部社員の教育である。その一つが部下育成の評価への反映。管理職層の評価は業績評価と行動評価の二つであるが、ライン長の行動評価は「部下の労務・健康管理」「チームワーク・結束」と並んで「人材育成」を重要な評価項目に掲げている。同社では部下育成は「上司の最大のミッションであり、部下育成ができない人間は管理職としてだめだ、ということを発信し続けている」(丸山人事部長)。
さらに部下育成を重視した取り組みも強化している。05年には支社長・本部長など全事業場長クラスと関連会社の社長の計120人を集めた場で、「社員の育成」をテーマにした大ディスカッションを開催している。また、05年から全所属長を対象にしたコーチング研修を実施している。今年もライン長約170人を4班に分けて東京、近畿、九州地区で2日間の研修を実施した。
「コーチングの利点は質問を通じて相手の良さを引き出す人間性尊重の考え方が底辺にあります。部下を甘やかすのではなく、部下の力を引き出して本人に考えさせる。研修ではロールプレーや部下育成についての共有化というテーマで議論するなど丸1日かけて実施します」(丸山人事部長)
研修には同社の荻田伍社長もすべて出席している。「参加者にメッセージを送り、懇親会では全テーブルを回って歩く」(丸山人事部長)など、全社一丸となって人材育成に力を入れている。
愛社精神は企業の競争力を高める原動力であるが、同時にそれを支える仕組みも企業を取り巻く環境の変化に応じて変わらざるをえない。グローバル競争を勝ち抜くために年功型の昇進・賃金制度から成果重視の仕組みに変化したように愛社精神を支えていた従来の仕組みも変化を余儀なくされている。
企業環境に合わせて愛社精神を維持していくには、変えるものと変えてはいけないものを見極めつつ、変化に即応する不断の努力と継続性が不可欠である。アサヒビールの取り組みにはグローバル競争時代に打ち勝つ新たな日本的経営のヒントが隠されている。










