ビジネススクール流知的武装講座 [206]

「グレシャムの法則」から見た
基軸通貨ドルの明日

 
 

ユーロの台頭、サブプライムローン問題の深刻化により、もろさを露呈するドル。
それでもなお、基軸通貨の座を維持している理由とは――。

 
 

一橋大学大学院商学研究科教授
文=小川英治
text by Eiji Ogawa
1957年、北海道生まれ。一橋大学商学部卒業、一橋大学大学院商学研究科博士課程単位修得、商学博士。88年より同大学商学部勤務。ハーバード大学(86~88年)、カリフォルニア大学バークレー校(92~93年)でvisiting scholar。
著書・訳書に『国際通貨システムの安定性』『金融経済入門』『金融リスク管理戦略』などがある。

 
 

 イタリア中部(ローマから350キロ、ミラノから330キロ)の小高い丘に位置しているサンマリノ共和国という国がある。その面積が61平方キロであるから、まさしく「小高い丘に位置している」といえるほどの超小国で、人口もわずかに3万人ほどである。
 日本外務省によるサンマリノ共和国についての説明によれば、「4世紀初頭、ローマ皇帝によるキリスト教徒迫害を逃れるため、マリーノという石工がこの地にたてこもり、信徒を集め共同体を作ったのが建国の伝説とされている。中世にも天然の要塞を利用し外敵の侵入を防ぎ、自由と独立を守り続けた」。実際に、「小高い丘」というよりむしろ、絶壁に囲まれた「天然の要塞」と言ったほうが、サンマリノの印象に近いかもしれない。
 このサンマリノ共和国では、他のEU諸国と同様にユーロが導入されて、流通している。通常(例えば、筆者自身の講義の中でも)、ユーロ導入国は、現在、EU15カ国(ベルギー、ドイツ、アイルランド、ギリシャ、スペイン、フランス、イタリア、キプロス、ルクセンブルク、マルタ、オランダ、オーストリア、ポルトガル、スロベニア、フィンランド)、そして、2009年1月1日からスロバキアが加わって、EU16カ国と説明をされることが多い。しかし、実は、このサンマリノ共和国のほか、モナコ、バチカン市国の超小国においても、ユーロが流通しているのである。したがって、正確には、現在、(EU15カ国+超小国3カ国=)18カ国においてユーロが流通していると言わなければならない。
 ご存じの方も多いかと思うが、ユーロの硬貨の表側にはEUの地図が描かれているのに対して、その裏側には、国によって異なる図柄が描かれている。国際通貨を研究している筆者としては、訪れた先の国でお釣りとして手にした通貨を集めることを楽しみにしている。ユーロが導入されることが決まった当初は、欧州各国通貨の種類が減って、欧州へ訪れる楽しみが半減するかと落胆していたが、ユーロ硬貨の裏側の図柄が国によって異なることを知って、欧州各国を訪れることの楽しみはそのまま維持されている。もちろん、サンマリノ共和国を訪れる機会があれば、是非ともサンマリノ共和国で買い物をして、お釣りとしてSAN MARINOと刻印されたユーロ硬貨を手にして、筆者のコレクションを増やしたいと思っていた。
 ところが、サンマリノ共和国を実際に訪れる機会に恵まれた際に、何度も何度も買い物をしたものの、買い物して受け取るお釣りのユーロ硬貨は、SAN MARINOと刻印されたユーロ硬貨ではなく、レオナルド・ダ・ビンチが描いた図柄のイタリアのユーロ硬貨ばかりであった。結果として、レオナルド・ダ・ビンチの描いた図柄のユーロ硬貨が財布にたまりにたまるだけであった。そんななか、サンマリノの街のなかで、切手や硬貨のコレクションのショップを見つけた。サンマリノ共和国の昔の硬貨でもないかとそのショップを覗いてみると、昔の硬貨もあったが、それよりも目を引いたのは、SAN MARINOと刻印されたユーロ硬貨であった。

4倍近い値段で売られている
ユーロ硬貨とは


 その値札を見て、もっと驚いたのは、2ユーロ、1ユーロ、50セント、20セント、10セント、5セント、2セント、1セントのSAN MARINOと刻印されたユーロ硬貨の1セットが、何と15ユーロで売られているのである。これらのユーロ硬貨の合計額を何度計算しなおしても、3ユーロ88セントにしかならない。これらのユーロ硬貨が4倍近い値段で売られていたのである。筆者がこのショップで4倍近くもするサンマリノ共和国のユーロ硬貨を買ったかどうかは、読者の皆さんの想像にお任せしたい。
 なぜ1ユーロ硬貨などが4倍近い値段で売られているのかという疑問が湧き起こってくる。経済学が教えるところは、需要と供給の大小関係で4倍近い高い値段で売られているというものである。裏側にSAN MARINOと刻印されているだけで、需要が供給を上回ってしまうというのは、筆者のようなコレクターがいるからであろうか。それはほんの部分的な効果しか及ぼさず、大半の理由は違うところにある。むしろ、額面が1ユーロとあっても、市場価格がその4倍もすると知っていれば、いったんそのSAN MARINOと刻印された1ユーロ硬貨を1ユーロで手にした者はだれも1ユーロで手放さそうとはしないであろう。すなわち、額面が1ユーロとあっても、市場価格がその4倍もするということが一般的に知られていれば、SAN MARINOと刻印されたユーロ硬貨に対する需要が増大する一方、SAN MARINOと刻印されたユーロ硬貨の供給はほとんどない状態となる。ただし、もしサンマリノ共和国の中央銀行(実際には存在しないが)が需要に合わせて供給を増大すれば話は別で、額面どおりの価値となるであろう。
 このサンマリノ共和国においては、4倍近くの市場価格の付いているSAN MARINOと刻印されたユーロ硬貨はまったく流通していない。むしろ1ユーロならば1ユーロの価値しか持たない、すなわち、額面どおりの価値しか持たない、レオナルド・ダ・ビンチが描いた図柄のイタリアのユーロ硬貨が流通しているという、極めて特異な現象を経験することができる。このような現象は、「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則として有名である。4倍近くの市場価格の付いている(相対的な)良貨がまったく流通せず、額面どおりの価値しかない(相対的な)悪貨が支配的にその経済で流通しているのである。
 このグレシャムの法則は逆説的であって、俄かには理解しがたいかもしれないので、「悪貨は良貨を駆逐する」メカニズムを簡単に説明しよう。悪貨および良貨というのは、どのような意味で悪貨であり、良貨なのか。金貨・銀貨が支払いに使われていた時代においては、金貨・銀貨の純度が高ければ高いほど良貨であり、不純物が多く含まれれば含まれるほど悪貨であった。たとえ1ユーロと額面に刻印されていても、その純度が低いために、今は額面どおりに商品の数を購入できたとしても、近い将来に額面どおりに商品の数を購入できずに、実際に購入できる商品の数(「購買力」と呼ぶ)が少なくなるというリスクを抱えているのが、悪貨である。このことを現代の経済に置き換えると、ある国のインフレ率が高ければ高いほど、その国の通貨の購買力、すなわち、その価値は小さくなる。一方、ある国のインフレ率が低ければ低いほど、その国の通貨の購買力、すなわち、その価値はそれほど小さくならない。したがって、インフレ率の高い国の通貨が悪貨となり、インフレ率の低い国の通貨が良貨となる。
 このように悪貨と良貨を考えると、当然、購買力の減少が少ない通貨を選んで保有しようとするであろうから、悪貨よりも良貨を保有したがるだろう。

「悪貨は良貨を駆逐」した
金ドル本位制


サンマリノ共和国の1ユーロ硬貨。ほとんど流通してAおらず、入手は難しい。 コレクションショップなどで4倍近い値段で売られている。

「悪貨は良貨を駆逐する」のは、このサンマリノ共和国においてのみ起こっていることかというと、そうではない。第二次世界大戦後、ドルを基軸通貨として定めた金ドル本位制(アメリカの通貨当局はドルを金に対して固定する義務を有する一方、アメリカ以外の国の通貨当局は自国通貨をドルに対して固定する義務を有するという国際通貨制度)の下で、ドルが基軸通貨として世界経済において流通していたのも、この「悪貨は良貨を駆逐する」の例だったかもしれない。
 とりわけ、60年代後半から73年の総フロート制(すべての主要国が変動為替相場制度を採用している国際通貨制度)への移行までの期間においては、まさしく「悪貨は良貨を駆逐」していたのである。
 60年代後半、アメリカではベトナム戦争のための軍事費が嵩み、インフレが発生していた。インフレは、物価上昇によってその国の通貨で購入できる商品の数が減少していくことを意味する。このように通貨の購買力は通貨の価値と考えられることから、インフレはその国の通貨の価値を減少させることを意味する。アメリカにおいてインフレが発生したことによって、円やドイツ・マルク(ユーロ導入前にドイツで流通していた通貨)に対して、そして、金に対して、ドルの価値が下落していた。日本や西ドイツの通貨当局は、円やドイツ・マルクを減価するドルに固定する義務を負っていたので、自分たちの通貨も減価させなければならず、アメリカのインフレを輸入せざるをえなかった。
 また、アメリカの通貨当局は、金に対してドルを買い支えなければならなかったので、金を売却してドルを買うという介入を続けざるをえず、アメリカの金準備を放出していかざるをえなかった。その結果、71年8月15日のニクソン・ショック、すなわち、ニクソン大統領によるドルと金の交換停止を宣言し、戦後のブレトンウッズ体制がここに崩壊することになった。
 このような状況において、相対的に価値の下落しつつあるドルを受け取った者は、それを抱え込むよりはむしろ積極的に支払いに使うであろう。一方、相対的に価値の上昇しつつある円やドイツ・マルク、そして、金は、値上がり益(キャピタルゲイン)が求められるので、保有し、抱え込まれる傾向にあった。このような行動は、ドルに対する需要をさらに減らす一方、供給をさらに増やし、同時に、円やドイツ・マルク、そして、金に対する需要をさらに増やし、供給をさらに減らすこととなる。これらの需要供給の変化はますますドルの価値を低下させ、円やドイツ・マルク、そして、金の価値を上昇させることになった。
 ドルを基軸通貨として定めたブレトンウッズ体制が崩壊した後、ドルを基軸通貨とするルールが破綻した。その後でも、ドルは、減価し続ける一方、国際貿易取引や国際金融取引において最も利用される基軸通貨という地位を現在もなお維持している。その謎は、グレシャムの法則に隠されているかもしれない。

 
 
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