ビジネススクール流知的武装講座 [202]

経済成長は「数字」から「質」の時代へ

 
 

世界経済は、時系列的に、あるいは横断面的にばらつきのある成長を遂げてきた。
リスクともなる「ばらつき」を緩和するために求められる施策とは何か──。

 
 

一橋大学大学院商学研究科教授
小川英治=文
text by Eiji Ogawa
1957年、北海道生まれ。一橋大学商学部卒業、一橋大学大学院商学研究科博士課程単位修得、商学博士。88年より同大学商学部勤務。ハーバード大学(86~88年)、カリフォルニア大学バークレー校(92~93年)でvisiting scholar。
著書・訳書に『国際通貨システムの安定性』『金融経済入門』『金融リスク管理戦略』などがある。

 
 

なぜスピード重視の経済成長では
立ち行かないのか


 先日、洞爺湖サミットの直前に、一橋大学国際共同研究センタープロジェクト「東アジアの安定的成長と日本の役割:グローバリゼーション・成長の質・ガバナンス」(吹野プロジェクト)のキックオフミーティングにアジア開発銀行総裁の黒田東彦氏をお迎えして、特別講演を行っていただいた(「東アジアの安定的成長と日本の役割」(PDFファイル/一橋大学サイト)を参照)。黒田氏は、「東アジアの安定的成長と日本の役割」という演題で、グローバリゼーションのなか、今後の東アジアの安定的な経済成長を達成するには、数字の上での経済成長ではなく、経済成長の「質」に注意を払わなければならないと話をされた。「経済成長の『質』」という言葉は、2000年に世界銀行が出版した本のタイトルから来ている。その本の英語名は、『The Quality of Growth』(Vinod Thomas, Mansor Dailami, Ashok Dhareshwar, Daniel Kaufman, Nalin Kishor, Ramon E. Lopez, Yan Wang共著、Oxford University Press)であり、その翻訳書のタイトルが『経済成長の「質」』(小浜裕久・織井啓介・冨田陽子訳、東洋経済新報社、02年)と訳されている。
 経済成長の「質」が強調される理由には、従来、経済成長のスピードのみが注目されてきたために、以下の二つの大きな問題に地球規模で直面してきたことがある。一つは、時系列的に見て、高度成長した後に、経済危機が発生するという繰り返しを続けてきて、決して安定した経済成長を遂げてはこなかったことである。すなわち、経済成長率の平均値がたとえ高くても、そのばらつきが高いという問題である。もう一つは、クロスセクションで(横断面的に)見て、高度成長を遂げてきたものの、それは平均値での話であって、ばらつきが大きいという問題である。たとえある特定の期間において、地球規模で経済成長率の平均値が高くとも、国や地域によってはそのばらつきが大きい。すなわち、グローバルに見て、貧富の差、あるいは、所得格差が大きいという問題である。
 経済成長を平均値で見るのではなく、時系列的に見て、そして、横断面的に見て、経済成長の「ばらつき」に注目すべきだというのが、経済成長の「質」で強調されていることである。「ばらつき」は、統計学的には、平均値に対して、その平均値からの分散や標準偏差で表現されるものである。とりわけ、ファイナンスにおいては、収益率に注目すると、収益率の平均値の分散や標準偏差を「リスク」と見なして、リスク・リターンの比較が行われている。まさしく、経済成長の「質」とは、裏返せば、経済成長の「リスク」を意味しているのである。金融資産運用において、収益率の平均値のみに注目して、「リスク」に注目しない人はいないであろうから、同様に、経済成長の「リスク」である経済成長の「質」に注目する必要がある。

「質」を維持しつつ
スピードを高める三つの基本原理


 それでは、経済成長の「リスク」を管理しながら、経済成長の「質」を維持しながら、そのスピードを高めるためにはどうすべきなのか。世界銀行の本『経済成長の「質」』に戻って、その答えを探してみよう。その本の中で、以下の三つの基本的な原理を考えなければならないと言っている。

一. 物的資本、人的資本、自然資本というすべての資本に焦点を当てること。
二. 発展過程における分配面に配慮すること。
三. 良いガバナンスのための制度的枠組みを重要視すること。

 経済成長を遂げ、国民一人当たりの所得を高めるためには、労働者一人当たりの生産性を高める必要がある。日本(中国を含むアジア全般の特徴となりつつある)のような少子高齢化が進んでいる国においては、国民一人当たりの労働者数が減少しているために、より一層に労働者一人当たりの生産性を高める必要がある。すなわち、国民一人当たりの労働者数の減少のスピードを超えて、労働者一人当たりの生産性が上昇しなければ、国民一人当たりの所得は低下し始めることになる。
 労働者一人当たりの生産性は、資本と技術に依存する。例えば、筆者の原稿執筆のスピードは、テーマを決めて、材料を揃えれば、後は、パソコンという資本とワープロソフトという技術に依存することになる。テーマが決まって、材料さえ揃っていれば、一昔前のパソコンとワープロソフトを使っていたときに比べると、原稿執筆のスピードは格段に速くなっている(実の話、本稿を執筆するに当たって、最も時間を要しているのはテーマ選びである。「プレジデント」の編集者から次回の原稿締め切りを10日ほど前に宣告されるのであるが、その間ずっとテーマ選びに苦心し、実際にパソコンの前に向かうのは2日前である。逆に言うと、現在のようなパソコンという資本とワープロソフトという技術がなければ、いつも原稿締め切りを守れていなかったかもしれない)。
 さて、『経済成長の「質」』においては、資本には、物的資本と人的資本と自然資本が有機的に関連していることに注目している。物的資本とは、先ほどの例では、パソコンである。一方、人的資本とは、パソコンやワープロソフトを使いこなすための教育・訓練で鍛えられたその労働者の能力である。たとえすばらしいパソコンという資本とワープロソフトという技術が存在していたとしても、労働者にこれらを使いこなす能力がなければ、宝の持ち腐れになる。これらを使いこなす労働者に体化された能力が人的資本である。この人的資本を高めるために必要なのは、教育・訓練である。この意味で、経済成長には教育が重要ということになる。しかも、所得格差を拡大しないためには、全国民への(義務)教育が必要となる。
 自然資本は、環境資本とも言い換えられる。パソコンという物的資本とワープロソフトという技術に加えて、これらを使いこなす能力としての人的資本が揃っていても、洞爺湖のような自然環境に恵まれて、朝目覚めたときから仕事をバリバリ始められる状況と、東京のように人混みと排気ガスのなかを通勤して、職場にたどり着いたときには疲れ果てている状況とでは、仕事の能率が異なってくる。もっとひどい場合、公害のような劣悪な自然環境のために病気になってしまったのでは、労働者一人当たりの生産性はゼロにまで落ちてしまうことだろう。温暖化が一層進んで、日本でもマラリアが蔓延するようになれば、通勤もままならなくなるかもしれない。洞爺湖サミットにおける地球温暖化の議論の成果に対して、必ずしも楽観的に評価する意見は多くない。サミット参加国の首脳たちは、経済成長の質それ自体、および経済成長の質における自然資本の役割を強くは認識していないのかもしれない。

経済成長の大きな役割を担う
「全要素生産性」とは


 このように労働者一人当たりの生産性を高めるには、物的資本の蓄積のほかに、技術と人的資本と自然資本が必須となる。後者の三つ、すなわち、技術と人的資本と自然資本を合わせて、全要素生産性(Total Factor Produc-tivity:TFP)と呼ばれる。このように、TFPの経済成長における役割は大きい。そして、現在においては、人的資本の形成のための教育と並んで、自然資本に深く関わってくる自然環境の保護や地球温暖化防止に目が向けられているのである。しかし、自然環境の保護や地球温暖化防止と物的資本の蓄積は、時として二律背反(トレードオフ)になることがあるので、民間企業は自然環境の保護や地球温暖化防止に消極的になる傾向がある。しかし、企業経営者は、自らの企業で働く労働者一人当たりの生産性を高める方策の一つに、自然環境の保護や地球温暖化防止による自然資本の整備があることを認識するべきであろう。
 民間企業は、総論では、自然環境の保護や地球温暖化防止は重要であることを理解していても、各論に入って、自らの企業利潤を短期的に減少させると判断すると、消極的になるのは、自然環境がいわゆる公共財的性格を有するためである。もし自分のことしか考えない企業であれば、自分一人が対応しなくても、周りの他の人たちが自然環境を保護してくれれば、自分はコストを払わずに、自然環境の恩恵に与ることができるという考えを持つであろう。このような考えを皆が持てば、だれも自然環境を保護しようとせず、それは破壊されていくのである。
 このように個々人がコストを最小化するという、ミクロ的に最適なように見える行動も、マクロ的には皆の状況を悪くしてしまうという、「合成の誤謬」が起こりかねない。このような公共的性格を有するのが自然資本であることから、洞爺湖サミットで各国首脳が議論して、政府主導で自然資本の維持を図っていかなければならないのである。
 物的資本の蓄積と自然資本の維持との間にトレードオフがあることは、どちらかにウエートを置き過ぎてはいけないということを意味する。両者のバランスの取れた対応が必要である。しかし、先進国および発展途上国のどちらの経済成長の歴史を見ても、物的資本の蓄積が過大に重視されてきたことは反省すべきことであり、今や(遅すぎるかもしれないが)両者のバランスを取ることを図らねばならない。そのために、「良いガバナンスのための制度的枠組み」が重要視される。これらによって、経済成長率の時系列的「リスク」を最小化して、安定的成長、あるいは、持続可能(サステナブル)な経済成長が達成可能となるのである。

所得格差問題を解決するために
政府がすべきこと


 最後に、横断的に見た成長のばらつき、すなわち、所得格差に触れよう。上述した自然環境の保護や地球温暖化防止は、行うべきことが明白だが、「合成の誤謬」のために「総論賛成各論反対」となってしまうという問題に直面する。一方、所得格差の問題の解決策には議論の余地が残っている。所得格差に対して、貧困削減も含めて、所得再分配を地球規模で遂行するのが本当にいいのかは明らかではない。所得格差を完全に解消するために徹底した所得再分配を実施することによって、「結果の平等」を達成することが望ましいのであろうか。「結果の平等」は、一所懸命に働くインセンティブが削がれる一方、怠けていてもある程度の生活が保障されるから怠けようというモラルハザードが起こる可能性がある。
 このような問題を解決するためには、教育も含めて、「機会の平等」を確保しつつ、インセンティブ確保のために、一所懸命に働いて、成功すれば、報われるようにし、その成功報酬の全部を所得再分配のために税金として取り上げないのがよいだろう。同時に、必要最低限の生活を保障するための安全網(セーフティーネット)を整備しておくことによって、所得の下方リスクを抑えるという形で所得格差、すなわち、横断的に見た経済成長の「リスク」を管理することに努める。このようなバランスの取れた施策が次善の策なのかもしれない。

 
 
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