職場の心理学 [197]
昇格300人、降格150人! キヤノン流人事制度
好業績のときも、業績が低迷したときも、創業当時から一貫して
「終身雇用」にこだわり続けてきたキヤノン。
社員が現状に安住してしまう終身雇用の弊害を打破すべく、新たな試みが始まった。
過去最高!
86.1%が終身雇用を支持
終身雇用を望む労働者が増えている。労働政策研究・研修機構の調査によると、終身雇用を支持する人が過去最高の86.1%に上るなど労働者の安定志向が強まっている(2008年3月)。とはいっても終身雇用を維持するのは生半可なことではない。
確かに終身雇用制は労働者に安心感を与えることで企業内特殊技能の向上を促し、生産性を高める効果があるとされる。一方で、従業員に安心感を与えるのはいいが、弊害として現状に安住し、サボタージュが増えてしまい生産性を低下させるという指摘もある。
あるいは業績低迷に陥ると人件費である固定費が重くのしかかり、技術投資などイノベーション(技術革新)を阻害し、競争力の低下を招くという経済学者の指摘もある。とりわけ新商品・新サービスの創出が常に求められる今日のグローバル経済下ではなおさらリスクが高いといえる。00年前後の業績悪化時に大手企業が終身雇用をかなぐり捨てて雇用調整に踏み切ったのは記憶に新しいが、経営者の多くがそうした危機感を抱いたからである。
ただし、終身雇用が生産性や競争力の低下を生むという決定的な実証研究結果が存在するわけではない。あくまで仮説の領域にすぎない。その中で創業以来、終身雇用を頑なに守り続けているのがキヤノンである。同社は今でこそ業績好調企業であるが、過去の業績低迷期にあっても雇用調整に踏み切らずに全体の賃金を下げることで雇用を維持してきた。なぜ、終身雇用にこだわるのか。同社はその理由について細かく言及することはしない。何のためにという方法論ではなく、社是であり、覚悟であると言い切る。
「雇用最優先は施策や方法論というより、会社としての覚悟だ。昔から業績が悪くなったら皆でしゃがんで我慢しようと言ってきたが、仮に今後会社の業績が悪くなっても給料を減らして皆で我慢して雇用を守っていくということだ」(人事本部・原一郎人事部長)
業績悪化時は全員で給料をシェアリングしながら雇用を守るという「覚悟」は、キヤノンの価値観、文化であり、その是非を問う必要はない。問題は終身雇用に潜む弊害を克服し、いかに従業員のモチベーションと資質を高めながら、生産性の向上につなげていくかという点だ。言うまでもなく右肩上がり経済時代の経営スタイルとは異なる新たな経営・人事戦略が求められている。その観点では、キヤノンの取り組みは大きな実験とも呼べるものだ。
同社は00年以降、JK(人事革新)の呼び名でさまざまな改革に着手している。その一つが根幹をなす賃金制度改革である。従来の年功的処遇体系から欧米の職務給的要素を取り入れた独自の「役割給」制度を01年に管理職に導入している。役割給とは従来の日本的賃金の決定基準を大きく変えるものだ。
簡単に言えば、これまでの日本的賃金が本人の能力など「人」を基準に決定していたのに対し、役割給は「仕事」を基準とする。つまり、年齢や能力に関係なく、本人が従事している職務や役割に着目し、同一の役割であれば給与も同じである。どれだけ重要な仕事をこなしているかというポスト(椅子)で給与が決定し、逆にポストが変われば給与も変わるというものだ。
同社は終身雇用と並んで「実力主義」を創業時から掲げてきた。しかし、実態は実力に基づく賃金格差が多少あっても全体としては経験年数に引きずられて賃金が上がる年功的処遇となっていた。それを払拭し、実力主義を徹底する目的で導入されたのが役割給だ。さらに年功的運用で誰もが給与が上がることをやめるということは人件費構造改革でもあり、当然、終身雇用の維持とも密接に関連する。
「終身雇用を堅持する以上、経営環境が変化する中で実力主義とどう両立させていくかという課題があった。そこで出てきたのが、能力ではなく、仕事、役割で処遇していくという一つの回答だった」(原人事部長)
今でこそ役割給の導入企業は珍しくないが、本格的に導入したのは同社が初めてである。そして05年には一般社員層にも導入している。役割の定義は企業によって異なるが、同社は担当する仕事や職務に加えて、その職務をどこまで、どのようにやるかという職務を遂行する責任範囲(職責)の二つを役割と呼ぶ。役割レベルを一般社員層四段階、管理職を五段階設定し、それぞれ果たすべき役割が決まっている。役割をベースに期初に上司と話し合って決めた重点目標など個人の職責について期末に評価が実施され、毎年の昇降給額が決まる。
したがって欧米の職務給のように同じ職務であれば同額(単一レート)というのではなく、同一役割レベル内で一定のレンジ(賃金幅)のある範囲給である。賃金は月例給と賞与で構成されるが、月例給は役割給一本である。しかも従来あった毎年昇給する定期昇給制度を廃止するとともに住宅手当や家族手当などの諸手当もすべて廃止した。賞与は役割給反映部分と個人業績、会社業績の三つで決まる。
ポストに安住することが
許されない仕組み
年齢や経験に関係のない役割給の世界では、若くして昇格する人が発生する一方、「任にあらず」ということで降格も常に発生する。導入後3年後には毎年300人が昇格し、150人が降格するという現象も始まった。現在でも「役割給であるから上がる人もいれば下がる人もいるのは当然。若くして部長になる人もいれば、年輩者でもポジションが下がる人もいる。若い課長も誕生するなど全体的に若返っている」(原人事部長)という。
昇格・降格は当然給与にも跳ね返る。若くして優秀な社員は大きな役割と処遇を手にすることができる一方、役割を全うできなければポストを外される。あるいは「一度ラインの部長を外れても、再び返り咲く人もいる」(原人事部長)など社員はポストに安住することが許されない。役割給制度は冒頭に触れた終身雇用の弊害である安心しきってサボタージュを生むことを排除する機能も有している。
ただし、役割給制度や成果主義賃金もそうであるが、単に会社から与えられた仕事の成果のみで賃金のすべてが決まる仕組みは社員の不満を招きやすい。いかにすれば高い成果と処遇を獲得できるのか、あるいは自ら希望するキャリアにふさわしい役割を選択できるチャンスを付与することも大事だ。
同社はそれを補完するものとして二つの機能を用意している。一つがキャリアの相談窓口であるヒューマン・リレーションズセンター(HRセンター)である。仕事上の相談から現在の役割に対する不安、あるいはどんなキャリアをめざすべきかについてアドバイスする部署である。こうした相談は通常は人事部が担当するが「人事部は敷居が高いということで相談しづらい。専任部署を置くことで気軽に相談できる。実際に相談が多いし、役割給制度を運用していくうえで効果を発揮していると思う」(原人事部長)という。
もう一つの機能が社内公募である。社内イントラネット上に各部署の求人募集が随時掲載され、希望する社員はネット上で応募する。応募・選考は直属上司に内緒で行うこともでき、採用決定後に上司に通知される。この制度により年間200人程度が異動している。もちろん一般社員層だけではなく「管理職の公募もある。求人募集には、たとえば課長職の仕事内容と必要な役割レベルの要件も指定されている」(原人事部長)。
課長クラスで年間15人のみに、
超厳選研修
役割給という実力主義の仕組みで社員を刺激し、全体のモチベーションを喚起する。これも人事戦略上の重要な柱に違いないが、さらにグローバル経済下での持続的成長を図るための不可欠な要件とされているのが優秀な経営人材の輩出である。現在、日本の大手企業でも一握りの社員を対象に経営者として鍛え上げる選抜研修制度を実施するところが増えているが、キヤノンも06年に「キヤノン・グローバル・マネジメント・インスティチュート」と呼ぶ経営幹部養成の研修施設を建設、経営者育成に着手している。
管理職の役割レベル、たとえば課長代理、課長、部長、所長クラスごとに各部門から推薦で候補者を選出し、同社の社長を委員長とする経営幹部育成委員会で最終的に研修対象者を決定する。対象者は課長クラスで毎年15人程度と全体の数%にすぎない。
2泊3日の合宿研修4回を含めて半年かけて経営全般に関わる学習を行う。
「講師は大学の先生やシンクタンクの研究員などの外部講師のほか、当社の役員が教えることもある。技術者であっても経理やマーケティング、人事管理など経営全般の学習のほか、プロジェクトごとの課題を設定し、グループ討議や成果発表など実践的なプログラムも用意されている」(原人事部長)
国内の社員を対象にした研修だけではない。日米欧、アジア地区からそれぞれ7人の経営幹部を選抜して実施するグローバル規模の研修も実施している。日本とスイスで定期的に開催し、講義はすべて英語で行われる。
「各地域のトップにキヤノンの価値観や考え方について共通の認識を持ってもらう大事な研修と位置づけている。またヨーロッパの各地域ごとの研修もあり、たとえば卒業すると、イギリスにいた社員がイタリアに赴任するなど配置転換も進みつつある」(原人事部長)
欧米はともかく、日本的風土では一握りの社員を経営幹部候補として選抜・育成することは、かつてはタブーとされた。平等意識が根ざす土壌において選抜されない社員の士気の低下を懸念したからである。おそらく過去のキヤノンも例外ではなかっただろう。しかし、役割給制度という人事制度のベースを築くことで、実力主義を浸透させ、その中から輩出される優秀な人材を経営幹部候補として育成することに踏み切った点にキヤノンのもう一つの「覚悟」を読み取ることができる。
ただし、終身雇用を柱とするキヤノン流日本的経営はまだ緒についたばかりである。役割給は現時点では日本人社員に限定された制度であるが「欧米は役割・職務給が多く理解されやすい。将来的には、たとえば世界の上位階層については同じ考え方で括ることもできるかもしれないという構想は持っている」(原人事部長)と指摘する。
ちなみに役割給制度は同社会長の御手洗冨士夫氏が会長を務める日本経団連が昨年5月、日本企業の新たな賃金モデルとして提案している。キヤノンの人事制度が日本はおろか世界のデファクトスタンダードになるのか。しかし、その前に果たすべき課題もある。同社が重視するのは制度の定着である。
「始めたばかりであり、正直言っていかに根づかせるかが最大の課題である。足下を見ながら進めていきたいし、企業文化として定着するには10年はかかるのではないか」(原人事部長)
人事制度の定着だけではない。選抜研修制度についてもスタートしたばかりである。経営人材の育成は研修と配置、つまり部門を超えて経営職に抜擢し、経営修業を積ませることも重要である。今後は「経営人材として部門を超えて配置していくローテーションの仕組みもつくっていきたい」(原人事部長)という課題も抱えている。
一般的に人事・賃金制度改革の成否の判断は難しい。たとえば会社の業績が好調な時期は水面下では多少の不満はあっても表面化されにくい。その点、会社の業績悪化時に成果主義を導入した企業の多くでは社員の不満が顕在化し、社員のモチベーションを低下させた事例も少なくない。
問題は業績が低迷した場合である。業績の低迷は当然賞与に跳ね返り年収を引き下げる。さらに続くと雇用調整による人件費削減というのが従来のパターンである。しかし、前述したようにキヤノンは社員の給与のシェアリングによって雇用を守ることになる。そうなると役割給の格差を前提にシェアリングが実施された場合、社員のモチベーションにどういう影響が出るのか。
制度の浸透・定着により個々の社員のマインドがプラスに転化するのか。まさに、そのときに終身雇用と実力主義の真価が問われることになる。キヤノンの取り組みは日本的経営の進化を占う大いなる実験として注目すべきだろう。










