ビジネススクール流知的武装講座 [195]
終身雇用への回帰が始まったもう一つの理由
中途半端な成果主義の横行の揺り戻しとして、
長期雇用志向の企業が増えている。
なぜか。筆者は、日本の人材育成の方法にその要因を見出す──。
今回は、4月なので、新入社員と企業に向けて一つお願いをしておきたい。ただ、その前にかなり長い前置きをお許しいただきたい。
組織行動論者のデニース・ルッソー教授(米国カーネギー・メロン大学)によれば、人事制度は働く人の心理的状態に強い影響を及ぼすメッセージ効果があるという。彼女の研究によれば、働く人は、人事制度やその運用が示唆する人材に対する考え方や価値観を読み込み、経営者がどんなに言葉で補おうとしても、結局は働く人は、人事制度や運用に関する自らの解釈を信じるという。
ある意味では当然だが、自らのキャリアや処遇に影響を与える人事制度のほうが、社長からの会社の将来やビジョンについての綺麗な言葉より大きな意味をもつのだろう。ルッソー教授によれば、働く人が自分や企業の行動についてもつ期待と義務の束である「心理的契約」はこうしてつくられるのだという。
いうまでもないことだが、バブル経済崩壊からの15年間、多くの企業はいくつもの新しい人事施策を導入して、働く人に対してメッセージを出してきた。成果主義、期限付き雇用、キャリア自律、ワークライフバランス。こうした制度について15年前に語ったとしたら、おそらくほとんど何も反応がなかったであろう。ようやく成果主義の意味がわかる程度だろうか。これらの制度は、この15年で確実に企業経営、特に人材経営の世界で定着した。
では、こうした仕組みの背後にある通奏低音的なメッセージとはなんだったのだろうか。何がこの基調にあるメッセージなのか。いろいろと考えられるだろうが、私はこれらの言葉の背後にあるメッセージは「働く人の自律」とか「自己責任」ではなかったのではないかと思う。
例えば、今ではあまり聞かれなくなったが少し古い表現を使えば、「自由と自己責任」。今は、慶應義塾大学に移られ、当時ワイアット社の代表取締役社長をされていた高橋俊介さんが、1994年に書かれた『人材マネジメント革命』(プレジデント社)という書物のなかで初めて使用した言葉だった。そのなかで高橋さんは「自由と自己責任とは……自分のキャリアについては自分で考え自分で選び、結果についても自分で責任を取ることである」と述べている。
まさに、今の言葉でいえば、成果主義とキャリア自律である。また、この本の副題には、「ポスト終身雇用」という用語が出てくるが、これも今で言う雇用の多様化や期限付きの雇用の普及、さらには正社員で雇っても、全員に定年までの雇用を保障するわけではないという方針の採用と呼応している。いずれにしても、過去15年間、人事や経営が出してきたメッセージは自由と自己責任、自律という価値観への転換を示唆していたのである。
働く人の86.1%は
「終身雇用」を支持
ただ、こうしたメッセージの氾濫のなかで、働く人の意識は自律の方向へと変化したのであろうか。そういう意味では、ごく最近(2008年3月24日)発表されたデータは興味深い。この調査は(独)労働政策研究・研修機構が99年から継続的に行っている日本的雇用慣行の支持に関するアンケートで、今回で五回目を数え、前回は04年だった。今回は昨年9月と10月に、20歳以上の4000人に実施し、回答率は約58%だった。
これによると、「終身雇用」を“良いことだ”、または“どちらかといえば良いことだ”と答えた人は前回より8.1ポイント増の86.1%。年功賃金を支持する人も5.2ポイント増の71.9%に上った。いずれにしても、「終身雇用」を、9割近くが支持している。
もちろん、このデータをどう読むかは難しいところである。ないものねだりとか、ノスタルジアという読み方もできるだろうし、また、働き手から見れば、こうした仕組みは今の人事制度より楽そうだからここまで高くなったという解釈もあろう。
だが、どういう背景を考えても、今の国民的な価値観は、「終身雇用」や「年功賃金」賛成なのである。ポスト終身雇用とか、自由と自己責任という議論からは程遠く見える。
また企業のほうの方針もそれほどはっきりとしたものではないようだ。同機構が、99年と03年に行った企業相手のアンケート結果を比較すると、「これからも終身雇用を維持していく」と答える割合は、この4年間で、33.8%から39.3%と六ポイント近く上昇している。むろん、長期的に雇用する人材の範囲が狭まった可能性はあるが、企業としても、様々な経営上の配慮もあって、終身雇用という制度を捨てるのは、あまりにも強いメッセージだという判断があるのだろう。
ただ同時に同じメッセージを15年も聞いていると、働き手も少しずつ変わってくるという兆候も見える。例えば、キャリア自律の前提となる能力育成の自己責任化である。少し古いデータになるが、富士総研が行った調査では、すでに00年時点で65%弱の回答者(N=3103)が「能力開発の主体」は企業ではなく、従業員個人であると答えている。こうした傾向は今でも続いており、上記の労働政策研究・研修機構調査では、07年の段階で、働く人の約72%が「自己啓発型能力開発」を支持している。ただ、この調査は、従業員責任対企業責任の対比ではない。
したがって、一部では変化の兆しが見えても、あまり大きな変化はないというのが実態だろう。同じことがいわゆる「労働市場の流動化」についてもいえる。バブル崩壊以降、政府や企業が多くの施策を通じて、労働市場の流動化を進めようとしたが、あまり大きな効果をあげなかった。先に見たように今でも働き手も企業も、長期雇用志向は根強い。
なぜこうしたことになってしまうのか。よく言われるのが、労働者の安定志向である。例えば、前述の終身雇用アンケートについて、一部のマスコミは、「安定志向への回帰」があると解釈している。
確かにそれもあるのかもしれない。でも、私は、日本における人材育成の特徴が長期雇用への志向を強め、労働市場の流動化を防いでいるように思う。そして、過去15年間、人材育成については、全体が縮小された以外、やり方に関して新しい施策の導入はあまりなかった。
より具体的に言うと、日本の人材育成が現場育成、またはOJT(on-the-job training、仕事を通じた学習)によっていることだ。確かに、外国でもOJTの議論はなされるし、また実態としても存在する。だが、人材育成の方法としてOJTを積極的に位置づけ、それが主な育成方法であると考えるのは極めて日本的(または、東アジア的)である。近年のリーダー育成研究において、高度の仕事能力は、高度な仕事経験を通じてしか得られないという、わが国ではあたり前の内容が、外国の研究では、重要な発見であるとされてしまうこともそれを物語っている。
人材育成というか、教育一般は、極めて曖昧なプロセスである。何を学習させればいいか。どうやって教えるか。さらにどうやって育成の成果を評価するのか。すべて明確な答えはない。それでも、企業というのは、人を育て、活用しないと商売にならないから、人を育てる努力をする。
そして人材育成のための仕組みをつくるのだが、曖昧な状況で何をすればいいかわからないとき、シンプルかつ効果的な仕組みが、「知っている人が知らない人に仕事を通じて教える」というOJTなのである。またOJTを始めるにあたっては上記の曖昧性について、特に明確な答えがなくてもよい。もちろん、答えはあったほうがいいが、少なくとも始めるにあたっては答えがなくても始められる。
一つの解釈は、わが国の場合、こうした仕組みが文化的な基盤や企業内人間関係のあり方などと適合して、極めてうまくいったということなのだろう。また古くから熟練の形成に関して、ノウハウの蓄積があったとも考えられる。その結果、ものづくりを中心に日本の企業は人的な力で競争力を確保してきた。
だが、同時に、OJT中心の育成は、三つの特徴をもつ。
第一は、時間がかかることだ。形式知を教えるのであれば、テキストも作れるし、また効果測定(テスト)もできる。したがって、効率的に進めることができる。だが、OJTには「習うより慣れる」という過程が必要なので、時間がかかる。
第二が、学習内容が「企業特殊的」になることだ。企業特殊的とは経済学の用語で、人材が獲得したスキルや能力がその企業で最も価値があることを意味する。OJTを通じて獲得されるスキルや能力は、その企業での仕事をベストにする方向で磨かれるので、企業特殊的になる可能性は高い。
第三が、育成場面が企業依存的になることである。OJTとはその定義上、仕事が提供されないと学習はない。学習の教材は、学校や訓練施設では提供されず、現場で提供されるのである。それがOJTの本質だ。したがって、仕事を提供してくれる企業に依存する部分が大きい。
こうした要因を前提とすると、当然働く人は、長期雇用を希望し、また他企業への転職について消極的になる。
また企業も「終身雇用」の否定や、キャリア開発における従業員責任の強化に躊躇するのも当然なのである。「終身雇用」や企業主導のキャリア開発は、OJT中心の育成が続く限り、極めて経済合理的なことなのである。この経済合理性がもつ働く人へのインパクトは極めて強い。
日本企業と新入社員に
求められること
やっと「お願い」まできた。私のお願いとは、企業の皆さんには、こうした方式が日本の人材育成の基本パターンであることを誇りに思って、それが充分うまくいくような仕組みをつくってほしいということである。特に新入社員に対して、チャレンジ性のある、学習効果の高い仕事を割り振ってほしい。単純で学習効果のない仕事ではなく、初歩的でも工夫の余地のある、頭をつかう仕事である。そうすることで、苦労して採用した若者が辞める可能性が低くなるメリットもある。
そして新入社員に対しては、まず、日本の人材育成とは、OJT中心であることを理解してほしい。つまり、これからの長いキャリアで仕事能力を本当に高めるのは、資格取得などではなく、仕事を覚えていくことしかないのである。したがって、良い経験をさせてくれるのであれば、一つの企業に長く勤めるのは、恥ずかしいことでも何でもない。とても合理的なことなのである。ぜひ、このことを心の片隅において、自分のキャリアを開始してほしい。
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