職場の心理学 [179]

2年で売り上げ1.6倍!「経営力コーチング」の効用

 
 
環境がめまぐるしく変化する中で、一般社員や管理職の能力開発はもちろんのことだが、
実はエグゼクティブこそ、経営力を強化するために絶えず勉強し成長していく必要がある。
プロの元経営者たちによる、複合経営力コーチングの効用を検証してみよう。
 
 
ジャーナリスト
小川 剛 = 文
text by Takeshi Ogawa高橋常政 = イラストレーション
illustration by Tsunemasa Takahashi
 
 

経営力の訓練は
いつどこで受けるのか

 2004年9月、米総合物流企業バックス・グローバルの日本支社であるバックス・グローバル・ジャパンを激震が襲った。日本支社長以下、取締役会のボードメンバーが不正会計の責を問われて一斉に解任されたのだ。

 後継支社長に指名されたのは管理本部長だった伊藤公昭氏。当時、クライアントのロジスティクス業務全般を代行するロジスティクス・アウトソーシング、そして財務、情報システムという主要部門を統括する立場にあったが、役員経験はまったくない。

「外資らしいトップ交代劇と言われればそうなのですが、アジア地区を統括するシンガポール支社のイギリス人ボスが乗り込んできて、ある日突然、『明日から君がやれ』の世界ですから。現場の業務のことはわかっていても、組織のトップとして何をするべきなのか、まったくわからない。正直、不安でした」と伊藤氏は振り返る。

 社長に指名された際、ボスから最初に言われたのは、「サクセッション・プランを考えろ」だったという。サクセッション・プランとは重要ポストの後継者を指名し、次代を担う人材を計画的に育成する制度のこと。アメリカでは後継者育成はステークホルダーに対する経営トップの当然の責務だ。

 しかし、自身、トップの心得を学ぶ機会もないまま社長に抜擢された伊藤氏にとっては、「それどころではない」というのが本音だった。

 サーベンス・オクスリー法(米SOX法)のプロセス監査に伴う財務監査で問題が発覚し、この償却のために社長交代があった四半期業績は赤字に転落。また前経営陣が断行したリストラのために優秀な人材が流出し、社内のモチベーションは低下していた。

「数字を上げる以上にやるべきことがあると感じていました。外資特有ですが、売り込んで入社してきたものの、結果を出せずに出て行ったり、少し結果を出すと引き抜かれてしまったりと、どうしても人材が寄りつかない。いい人材を集め、成果にきちんと報いるような人事評価制度や給与体系をいかに構築し、運用してゆくかが一番の課題でしたね」

 本社や海外支社、全国の営業所、顧客への顔見世に追われて、瞬く間に3カ月が経過した。その間、コンサルタントを活用するなどして人材育成や組織開発の方向性を模索したが、「本当にこれでいいのだろうか」という迷いと、いいしれないプレッシャーがいつも付きまとった。

 その年の12月、東京在住の高校の同期会を兼ねた忘年会に参加した。

「社長になったのはいいけど、気がついてみたら、クビになっても失業保険が出ないような世界に足を踏み入れてしまったよ」

 弱音交じりの近況報告を聞いていた旧友から、こんなアドバイスを受けた。

「エグゼクティブ・コーチングを受けてみないか?」

「そうやってグチをこぼしている
あなたが一番ダメだ」

 エグゼクティブ・コーチング(以下EC)とは、経営者や上級管理者を対象としたコーチングのことだ。

 コーチングは対話を通じて相手の中にある答えや能力を最大限に引き出すコミュニケーション技法だが、ECにおいてもコーチとエグゼクティブが対等の立場で質問形式の対話を断続的に行うのが基本。コーチは引き出された内容を分析、体系化して、“気づき”につながるように会話を発展させ、エグゼクティブの潜在能力と独創的な発想を引き出し、自己啓発を促してゆく。

 コンサルタントのように課題解決や目標達成のための“答え”を提供するわけではない。あくまでエグゼクティブ自身が自分で答えを見つけ出すのを後押しする。それがECの役割だ。

 アメリカではサクセッション・プランの一環で経営幹部にエグゼクティブ・コーチを付けるのが半ば常識になっている。コーチのサポートを受けて見識と判断能力を養い、経営のプロへと成長するのだ。エグゼクティブ・コーチの最低条件は経営の経験があること。GEの前CEOであるジャック・ウェルチ氏もエグゼクティブ・コーチに転身して、後進をサポートしている。

「まずは自信を持ってもらいたかった。社長としての心構えを身につけるうえでも、企業年金や社会保険、コンプライアンスなど伊藤社長が抱えていた実務上の課題解決に取り組むうえでも、ECを活用するメリットがあると思いました」

 伊藤氏にECを勧めた理由を長尾数馬氏はこう語る。長尾氏は財務コンサルティングや資産管理業務、投資顧問業などを手掛ける会社を経営する傍ら、日本でEC事業を展開しているSNAコーチング協会にパートナーとして参画している。

 同協会はさまざまな専門分野で活躍する実戦経験豊富なプロフェッショナルが結集した「エグゼクティブ・コーチ集団」だ。(1)マネジメント、セールス、マーケティング、(2)コーポレート・ガバナンス、コンプライアンス、(3)リスク・マネジメント、(4)財務管理・資産管理、(5)不動産運用、(6)人間力マネジメント、人材強化養成、(7)ストラテジックプロジェクト、(8)IT、(9)健康管理、(10)メンタルヘルスなどの専門分野から、クライアントのニーズに合わせてテーラーメードでコーチングプログラムを開発し、複数のコーチによる複合コーチングを実践している。

 伊藤氏は長尾氏からSNAの名誉チェアマンである住友晃宏氏を紹介され、ECを受けることを決意した。

「住友さんが出版された本(『エグゼクティブ・コーチング』小社刊)を拝読して、『心の軍師』という言葉に強く惹かれました。お会いして最初に住友さん自身が外資系企業でECを受けられた経験をお話しいただいて、これは受けてみようと。何か救いを求めていたというか、このままでは精神的に参ってしまうと思っていましたから」

 ECのプログラムは、伊藤氏の要望をヒアリングしたうえで、窓口になった長尾氏が以下のようにパッケージした。

〈セッション1〉経営基盤の整備、「社長」の定義とリーダーシップの最終責任、グローバル・マネージャーとしてのトップのマインドセット、ビジョン・ミッション・ストラテジー(中期事業計画を含む)──全4回。

〈セッション2〉経営者としての人間力(赤字にしない企業経営の秘訣)、経営者へのコーチ・メンタリング(社長のメンタルコントロール)──全2回

〈セッション3〉コーポレート・ガバナンス及びコンプライアンス経営を目指す、リスク・マネジメントの理想的なあり方──全2回

〈セッション4〉財務体質の改善、給与・退職金・企業年金制度の見直し(確定拠出型年金へのスムーズな移行)──全2回。

 キックオフミーティングで専任コーチ全員と伊藤氏が顔合わせをした後、セッションがスタート。週1回のペースで期間は約3カ月。ウイークデーは社長業が忙しく時間が取れないため、毎週土曜日の午後に専任コーチが伊藤氏のオフィスを訪ねて、約2時間のコーチングが行われた。

 外資系化学品メーカーや専門商社などさまざまな企業で40年以上企業経営に携わってきたSNAコーチング協会の住友氏は、セッション1の専任コーチを担当した。

「伊藤さんの一番の要望は、社長としての心構え、マインドセットの部分でした。そこで『経営基盤の整備』という形でセッション1を手厚くして、リーダーシップのあり方やグローバル・リーダーとしての心構え、人事や後継者育成におけるトップマネジメントのスキームといったテーマに時間を割きました。社長が勉強しないでどうして会社が健全に経営できるのかということで、各セッションでベテランの元経営者からガンガン叩き込まれるわけですから、伊藤さんも大変だったと思います。その分、プログラムを終えて、大変成長されたように感じました」

 伊藤氏自身はECを受けた感触をどう感じたのだろうか。

「すべてが新鮮でした。専任コーチの皆さんは経営経験が豊富な方々ばかり。私も必死でしたから、妙なプライドや壁をつくったらもったいないと思って、身を預けることができました。こんな状況のときにどう対応すべきか、かなり具体的な事例を私のほうからもあれこれと質問しましたが、皆さん、ご自分の経験を交えて親切にアドバイスしてくださいました。一生懸命に取っていたメモは今も持っています。読み返すと懐かしいですよ」

 時に食事に誘うなどして仕事を離れて気分転換させたり、周囲から異を唱えられる機会の少ないエグゼクティブに率直な意見をぶつけて、客観的な視点を取り戻させるのもコーチの重要な役割だ。住友氏曰く、「コーチとは信頼を裏切らない熱烈な応援団長」。

「応援団長というか、怖いオヤジというか……。住友さんは平気で叱る。私が、あれがうまくいかない、これがダメとグチグチこぼしていたら、『そうやって悩んでいるあなたが一番ダメだ』と叱られた。それがまたいいんですね」

企業の底力はトップの
経営力鍛錬にかかっている

 前経営陣の不祥事を受けてのトップ交代だっただけに、社内のコンプライアンス体制をいかに確立するかも、伊藤氏にとっては優先的なテーマだった。

 セッション3でコーポレート・ガバナンスとコンプライアンス、リスク・マネジメントを担当した専任コーチは鵜飼暢雄氏。カゴメなどで監査役を歴任し、社団法人日本監査役協会の理事や幹事を長年務めてきた鵜飼氏はこう語る。

「これからはコンプライアンス体制なくして会社は存続できません。それを繰り返し申し上げました。コンプライアンスというレールの上にコーポレート・ガバナンスという機関車を走らせるのが社長の役目だ、と。部下は社長の行動を見ている。コンプライアンスを疎かにしていたら、何をいっても部下は社長を絶対に信用しないし、コーポレート・ガバナンスは成り立たない。社長の行動規範、企業の行動規範とは何かを、一緒に考えました」

 ECプログラム終了後も、鵜飼氏に社内にコンプライアンス委員会を設立する仕事を個人的に依頼するなど、伊藤氏と専任コーチの関係は続いた。伊藤氏がECを受けた05年、06年と会社は二期連続で予算を達成し、売り上げは社長就任時の1.6倍に増えたという。

 ところが、次のステップを目指していた矢先、親会社である米バックス・グローバルがドイツの総合物流企業シェンカーA・Gと統合することが決定。これに伴い、バックス・グローバル・ジャパンと、シェンカーと西濃運輸の合弁会社である西濃シェンカーも07年1月に統合された。

 現在、伊藤氏は西濃シェンカーの専務執行役員の立場にある。

「それぞれ分野もテクニックも違いますが、専任コーチの皆さんから共通して学んだのは、会社を動かすのは人であるということです。人で成り立っているからこそ、人を動かす術がある。今は会社の規模も大きくなって、部下も増えましたが、モチベーションを高めて組織を機能させるというポイントは同じだと心得ています」

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 一般的にアメリカの企業では、サクセッション・プランを含めた社員の教育に関して販売管理費の10%を投入するといわれている。しかし、日本のビジネス社会では経営者教育に対する認識はまださほど高くない。ECのクライアントも外資系経営者や二世経営者が圧倒的に多いという。

 しかし、M&Aや不祥事による経営陣の交代劇が後を絶たない今日、経営者教育、後継者教育の必要性がもっと問われるようになるのではないだろうか。そもそもトップの不祥事が頻発するのは、経営者教育の不備、不足に由来するともいえなくもない。

 慶応大学大学院ビジネススクール教授で、SNAコーチング協会ではマネジメント分野を担当する専任コーチでもある藤井義彦氏はこう語る。

「経営環境が目まぐるしく変化する中で、経営者は日々、戦略を描き、重要事項を決定し、社員をモチベートしていかなければなりません。孤独な悩みを抱えたトップを横から支えてくれるメンター的なコーチがこれからは不可欠になってくる。企業の底力というのは、ECのような機会を活用してトップがいかに経営力を鍛錬するかにかかってくると思います」

 スキルとメンタルの両面から経営者をバックアップし、気づきを与え、潜在能力を引き出す。「私のコーチが……」というアメリカのビジネスシーンにありがちな常套句が、いずれ日本でも聞かれるようになるのかもしれない。

 
 
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