会社と従業員の
「心理的契約」を再構築せよ

 
 
上がらない給料、減少した人材育成の機会……。
いざなぎ景気を超え、企業が最高益を更新しても、従業員の不安感は消えない。
バブル崩壊以降に蓄積した従業員の我慢が限界に達し、
経営者への信頼をすり減らすことにつながるのではないか、と筆者は危惧する。
 
 
一橋大学大学院商学研究科教授
守島基博 = 文
text by Motohiro Morishima
もりしま・もとひろ●
東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院社会学研究科社会学専攻修士課程修了。イリノイ大学産業労使関係研究所博士課程修了。組織行動論・労使関係論・人的資源管理論でPh.D.を取得。2001年より一橋大学商学部勤務。著書に『人材マネジメント入門』『21世紀の“戦略型”人事部』などがある。
 
 

「従業員の我慢」は
重要な経営資源である

 バブル経済崩壊からの復活過程でもっとも効果的だった経営要素は何なのだろうか。

 情報技術(IT)?

 株主重視のガバナンス構造?

 財務的なリストラ?

 もちろん、こうした要因も重要なのだろうが、経営者があまり気づいていない要素として、「従業員の我慢」があるように思う。従業員は数多くの厳しい施策を我慢して受け入れ、そのなかで会社の建て直しをしっかりと行ってきたのである。何年たっても上がりそうにない賃金を受け入れる、ひとりふたりと正社員が減り、派遣社員に置き換わっていく職場を見つめる。そして、多くは、自らが“リストラ”されることを受け入れ、新しい職場に希望をつないだ。

 こうした我慢の結果もあり、わが国経済はようやく復活の兆しが見えている。企業業績は上昇傾向にあり、株価も持ち直し始めている。なんといっても、多くの企業で利益が出てきた。その意味で、「従業員の我慢」は、再生のための重要な経営資源だったのである。

 では、こうした「従業員の我慢」はいったいどういう形で企業のなかに蓄積されるのだろうか。ひとつには、我慢とは、働く人の変革推進者への信頼によっていることが多い。変革に必要なこれまでとは違った行動をとるためには、変革推進者が裏切らないという信頼が必要なのである。

 社会心理学者の山岸俊男氏によれば、相手を信頼して行動するということは、そうでない場合よりも、自分の身を危険にさらす程度が高まるという。つまり、信頼とは、相手が利己的な行動をとらない可能性に関しての信念や期待であり、信頼の程度によって自分をどこまで危険にさらすかが決まり、それにより改革がちゃんと進むか大きく左右されるのである。いうなれば、変革や環境変化への対応には、経営者への信頼が必要なのである。

 そして、こうした信頼は、通常の状況(つまり変革以前)の、働く人と企業(または経営者)の心理的契約が維持されることに依存する。心理的契約とは、「組織との互酬的な関係に関して従業員が抱く主観的な信念」のことであり、一般的に雇用契約とは、将来にわたって、労働条件などを、変化や状況に対応する形で明示的に書き出すことができないので、信頼に基づく心理的契約である側面が強い。

 そして、その形成・強化・破壊に影響を与えるのが人事管理システムなのである。別の言い方をすれば、従業員は、人事管理のシステムや運用のありようから、経営者や会社の意図を読み取ることが多い。人事システムのなかで、心理的契約の違背がなければ、信頼が形成されるのである。

 つまり、日常の雇用のあり方によって信頼がどこまで形成され、我慢がどれだけ蓄積されるかが決まるのだが、思い返せば、過去15年間は、日本の雇用のあり方が変化し、心理的契約が働く人にとって、裏切られることの多かった時期でもあった。

上がらない賃金減少する人材育成

 例えば、賃金である。独立行政法人労働政策研究・研修機構で私たちが2005年に行った調査によれば、バブル経済崩壊から復興過程の最後まで、多くの人が、「賃金上昇」の経験をしなかったことが示されている。

 少しデータを見てみよう。この調査で、私たちは、3年前と比べての自分の賃金が、(1)個人の成果や業績によって上がった、(2)昇進や昇格によって上がった、(3)会社の業績が向上し上がったか、どうかを聞いた。その結果、上がったと答えた回答者は、全体2478人中、それぞれ(1)20.0%、(2)28.9%、(3)13.4%だった。多く見積もっても、全体の30%ぐらいの人しか賃金が上がらないという状態がここしばらく続いてきたのである。なかでも、いわゆる成果主義全盛のなかで、成果評価によって賃金が上昇したと答えた人は5人にひとりである。

 もちろん、こうした状況は、企業業績が極めて悪く、企業が賃金を上げることができなかった、ということの結果かもしれない。そこで、経常利益が1995年から00年までに10%以上上昇した企業だけ(以下、業績の上がった企業)を抜き出して分析してみた。その場合、確かに「会社の業績が向上して、賃金が上がった」と答える回答者の割合は、全体サンプルで見られた13.4%から22.4%まで上昇するが、それでも20%より少し高いだけである。

 さらに、上の三つの理由で賃金が上がったと答えた回答者のうち、同じ時期に残業も含めて、労働時間が増加したと答えた回答者は、賃金の上がった回答者の45%に上り、多くの人にとって、時間当たりの単価は、上昇していないことが示唆される(ちなみに、賃金が上昇しなかった回答者のうち、労働時間が増加したと答えた割合は、38%だった)。

 結論として、過去5年間ほど、賃金の上昇に関して、働く人はかなり厳しい状況を受け入れてきたのである。

 比較のしようがないので明確には言えないが、直感的に考えて、全体の3分の1しか賃金が上がらない状態が3年間も続いたとしたら、それは極めて異常な事態であると言わねばならないだろう。ましてや、それ以前の賃金体系が、ベースアップや定期昇給など、時間の流れとともに上昇する賃金を働く人に提供してきたのだから。

 また、同じように働く人の期待が裏切られたのが、人材育成の減少である。必ずしも、長期雇用の維持に関してではない。

 実際、上記の労働政策研究・研修機構調査で、正社員については、原則として定年まで雇用すると答える企業は、いまだ85%程度存在する。また、同機構の04年調査によれば、70%程度の企業が、「長期安定雇用をできるだけ多くの従業員に提供したい」と考えており、対象者を限定したうえで、という制限をつける企業を含めると、「90%程度の企業が、できることならば、長期安定雇用の原則を維持したい」と考えている。その意味で、多くの企業が、正社員の長期雇用については、維持したいと考えているようである。

 だが、問題はその次なのである。同じ労働政策研究・研修機構の調査によれば、約53%の企業が過去5年間、「従業員全体の能力向上を目指した教育訓練」を重視してきたと答えており、その傾向は、長期雇用の方針を維持すると答える企業でわずかに高い(約55%)のみである(ちなみに、逆に正規従業員について長期雇用を維持しないと考える企業では、約49%であった)。さらに、過去5年間で企業業績が上昇傾向にあったと答えた企業でも、約58%なのである。これを多いと見るのは難しいだろう。

 では、従業員全体ではなくても、「一部の従業員を対象とした選抜的な教育訓練の実施」が行われてきたか、というと、こうした選抜型の人材育成を重視してきた企業は、全体の3分の1(約33%)しかおらず、長期雇用の維持・非維持にはほとんど依存しない。さらに、どちらの育成方針(従業員全体、選抜)も重視してこなかったと答える企業が、全体の3分の1(約33%)あり、企業業績が上昇傾向にあったと答える企業でも、あまり大きな違いはないのである(約31%)。

 また、人事部が行う育成だけではなく、企業内能力開発の根幹であるOJT(現場での能力開発)にも変化の兆しが見えている。厚生労働省の能力開発基本調査によれば、職場での計画的なOJTの実施率は93年の74%から02年には41.6%へと減少傾向にある。もちろん、これは単純に、OJTに割けるだけの人員の余裕がないという理由からの結果である可能性もある。どの部署も適正人員の限界、または不足している状況下で業務をこなしているからである。いずれにしても、正社員の能力開発機会が失われているという点では同じである。

 さらに、こうした傾向は、働く人の認識にも反映されている。「過去3年間を考えた場合、私の会社は、社員教育には全く関心がない」という文章に同意する割合が、全体の14.0%おり、「どちらともいえない」(18.7%)を加えると、実に3分の1近くが、自分の企業では過去3年間、社員の育成にあまり関心を払ってこなかったと答えているのである。

 依然として、長期雇用に守られた正規従業員だが、過去15年は、人材育成の機会と投資の減少を経験してきたのである。これもバブル崩壊からの復活過程で失われた期待だろう。

「人の心の舵取り」が好調持続のカギ

 私の危惧は、こうしたある意味ではかなりきつい経験が、働く人の経営に対する信頼や我慢をすり減らすことになっていないかという点である。なぜならば、こうした変化はある意味では、働く人と企業との心理的契約の違背であるからである。

 したがって、過去15年の変化が、納得のいく説明のないままに導入されたと認識された場合、心理的契約の違背を生み、会社への満足度や経営者の信頼を下げるのかもしれない。実際、これまで用いてきた労働政策研究・研修機構のデータによると、経営者に対する信頼はある程度低下していることが窺える。例えば、「今の会社での経営者は信頼されている」という文章の「当てはまり」の変化を聞いたところ、「当てはまる度合いが高まった」と答えた割合が、16.1%に対して、「当てはまる度合いが低くなった」と答えた割合が25.2%だった。

 そして、この傾向は、過去3年間賃金が上がっていない、自分の会社では社員教育に全く関心がないと答えた回答者で強く見られるのである。信頼が低下した割合は、それぞれ29.8%と47.5%であった。

 先にも述べたように、経営への信頼や我慢は、経営の視点から見た場合、貴重な資源として位置づけられる。事業構造を変革するとき、新しい戦略に移っていくときなど、企業の変革にあたっては、働く人が経営者にどれだけ信頼をおいているか、その結果としてどれだけ我慢する気があるかが、重要な経営資源なのである。

 わが国の経営は、こうした働く人の我慢や信頼を長い間かけて蓄積してきた。そして、それがバブル経済崩壊からの復興過程で活用されたことはいうまでもない。だが、企業業績回復のために導入された人事改革には、新たな心理的契約が再構築されているかもしれないのである。そこでは経営者への信頼も限定的なものになっているかもしれない。

 だからこそ、経営者は、今回の人事改革が、働く人の信頼という貴重な経営資源をどう変容させたかに関心を持つべきだし、業績が戻ってきたからといって、元と同じような心理的契約や信頼が再生されていると考えることはできない。将来、信頼を経営資源として使いたいのであれば、もう一回時間をかけてつくり直さざるをえないだろう。今、ここで人の心の舵取りを間違えると、働く人は、会社や経営者に対して信頼を失ったまま、全く新しい心理的契約を構築してしまうかもしれないのである。

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