職場の心理学 [156]

伊藤忠流
「40代役員」抜擢のしくみ

 
 
多額の不良債権を一挙に処理してV字回復を果たし、
2006年3月期には史上最高益を計上した伊藤忠商事。
その背景には大規模な事業の整理とともに
人事制度の抜本的な改革があった。
若返りによる活性化、社員の自信や
やる気を高めることに成功したその改革の実態に迫る。
 
 
ジャーナリスト
溝上憲文 = 文
text by Norifumi Mizoue
みぞうえ・のりふみ●
1958年、鹿児島県生まれ。明治大学政経学部卒業。雑誌記者などを経て独立。経営、ビジネス、人事、賃金、雇用問題を中心テーマとして活躍中。著書に『年金革命』『隣りの成果主義』『超・学歴社会』がある。
高橋常政 = イラストレーション
illustration by Tsunemasa Takahashi
 
 

180度転換の人事制度改革は
社員への試練だった

 組織改革や制度改革、あるいは事業構造改革にしても、およそ改革と名のつくものの最終目的は「人」を変えることにある。逆にいえば、人の意識が変わらない組織や制度をいくら構築したところで砂上の楼閣にすぎない。意識を変えるには、人を改革に惹きつけるソフトスキルが不可欠であり、その要諦は、時には人間の情緒的部分に訴えかけながらトップと末端との一体感や信頼感を醸成し、移ろいやすい人の意識を常に鼓舞し続ける“永久運動”にほかならない。

 1990年代後半、多額の不良債権を抱え、赤字続きのどん底にあった伊藤忠商事をV字回復に導いた丹羽宇一郎社長(現会長)の大胆な経営改革は、有名だ。関連会社350社以上の整理をはじめ、約4000億円の不良債権のスピーディな処理など負の遺産を整理する一方、ファミリーマート買収や情報分野への積極投資など攻めの経営を果断に実行した。また経営再建の過程での丹羽社長の給料返上、電車通勤、役員会議でのコンビニ弁当など派手なパフォーマンスも話題を呼んだ。

 給料返上に関しては丹羽会長も印象に残ることをすることで改革の真剣味を社員に感じてもらうことが狙いだったと語っているが、単純に経営トップが襟を正し、率先垂範すれば社員の意識が変わり、改革が成就するものではない。社員が自らの価値観を変えなければ会社で浮上できないほどの試練を与え、それを乗り越える努力を通じてでしか意識を変えることはできないといってもいい。その試練の一つとして見逃すことができないのが99年の人事制度改革だった。

 従来の昇進・昇格制度を抜本的に見直し、年功色を払拭した職務・職責に基づいて支払う職務給型賃金の仕組みを導入した。従来の制度は部・課長などの職位とは別に、給与と連動した等級などの社内資格を設け、昇格すれば給与も上がり、職位も上がる「職能資格制度」と呼ばれる日本企業の典型的な仕組みだった。

 しかも、昇格の要件には年齢や経験年数が多分に加味され、加えて、一度昇格するとまず下がることのない年功色の強いものである。同社はこの制度を完全に廃止し、仕事や役割(ポスト)の重要性を分析し、職務・職責ごとに新入社員から役職者までを六つのバンド(等級)に分類。社員の賃金は就いた職務のバンドごとに決まる固定給とそれを反映した変動給(賞与)に一新した。制度導入の狙いは適材適所人事の推進とペイフォーパフォーマンスの徹底にある。

「新しい価値を創造し、マーケットニーズに対応できるクリエーティビティのある人材が必要な時代に、経験や年功だけでは対応できません。従来の価値観ではいったんついた能力は下がらないのが前提となっており、能力と年功は一体と見られていたが、職務は責任と結果が問われる。年功ではなく、職務・職責に軸足を移した処遇に変えました。同時に年功序列では難しかった若手の登用や抜擢も可能になりました」(石塚哲士・執行役員人事部長)

 もう一つの狙いは固定的であった人件費の流動費化にある。賞与は月例給の一定月数分を支給するのが一般的であったが、新制度では「業績連動型賞与」すなわち、会社業績に連動して変動給の原資が決まり、それを組織業績と個人業績に応じて配分する仕組みに変えた。社員にとってもはやボーナスは安定した賃金ではなくなった。

 当然ながら毎年の職務分析によりバンドが上がる社員もいれば、逆に“任にあらず”と判断されると降格し、給与が下がる社員も発生する。決して名ばかりではない。現実に「毎年5%前後は上がる人もいれば、下がる人もいる」(石塚人事部長)という。同社の単体の社員は約4100人。毎年200人前後が昇格する一方、200人前後が降格していることになる。

 じつは99年当時、従来の賃金制度を180度転換した職務給型賃金を導入したのは他の商社には例がないばかりか、日本企業でも数えるほどしかなかった。経営環境が厳しい中で企業の収益に直結する成果やパフォーマンスを重視する賃金制度改革は、かつてない試練を社員に課すだけにショックも少なくなかっただろう。事実、導入当初の状況を取材したことがあるが、ある幹部社員はバンド制への変更について「自分が想定していたよりバンドのランクが低いために納得がいかないという部下から不満をぶつけられた。それなりに一応説明をしたが、バンドを決定する手続きも複雑で、上司としてもなかなか説明するのがむずかしい」と漏らしたものである。

 未知の基準によって評価される部下はもちろん、評価する側の上司も初めての経験である。同社に限らず、いわゆる成果主義を導入した企業が共通に直面する現象である。しかし、かといって社員の不満やとまどいをそのまま放置すれば、おそらく制度は破綻していただろう。

 実際に社員の不満を解消するために人事部主導で制度の微修正を繰り返したあげく、ついに制度の廃止に追い込まれた企業も少なくない。それほど成果主義を根付かせるのは至難の業であり、人事部がいくら制度をいじくったところで解決はしない。成果主義を定着させるうえで重要なのは、企業の描くビジョンと成果主義の思想が一致し、それを社員にどこまで浸透させるかである。いわば企業風土や文化の変革に匹敵するほどの改革に等しい。当然、経営トップを含め全社一丸となって取り組むべき課題である。

 じつは前述した丹羽社長のパフォーマンスはまさにその点において重要な意味を持つ。彼は就任と同時に現場との対話を重視し、日曜日に全国の社員を集めて討論する一方、部長とは一人ずつ、課長クラスは10人単位での面談を毎年実施。若手とも同社の地下の社員食堂で夜飲みながら、自分の信念を伝え、夢やビジョンを共有し合える関係を築くことに全精力を傾注した。

 車座集会を通じて常に社員と向き合い、徹底した議論を行うことの意義を丹羽社長は当時こう述べていた。

〈構造改革には始めがあって終わりはない。日々、改革の連続だと思っています。会社は組織をいじり、形を変えたくらいで収益が出るほど簡単なものではない。それぞれの社員が仕事に取り組む精神、心の問題をいかに変革するか、また、それを時代に合ったものにどのように変えていくかが一番大事なことです。社員の精神革命と経営革命は不即不離の関係にありますから、終わりのない戦いといっていい〉(本誌、2002年3月18日号)

 成果主義定着の要件を見抜いているだけではなく、改革の本質を見事に言い当てている。しかも、経営トップと社員との信頼関係を築くために単に口先だけではなく、行動でも実践。前述の給与返上などの事例だけではなく、6年で社長を辞めることを宣言し、覚悟のほどを示した。当時、社員に成果主義を導入しても、役員改革は手つかずの高みの見物を決め込み、社員の反発を招いた企業が多かった。社員に“痛み”を強いるなら役員も分かち合うことで制度の信頼性も高まる。

「スキップ・ワン・ジェネレーション」もその一つだ。世代を超えて若手の登用・抜擢を推進し、全社的に若返りを図ることを宣言した。そして実際、04年、後任の社長に49年生まれの小林栄三氏を7人抜きで任命した。年功序列を廃した人事を役員においても断行したことが社員にもインパクトを与えたのは間違いないだろう。新人事制度導入後、04年には40代の役員も登場し、最年少部長は40歳、最年少課長は35歳と制度導入前に比べて若返りが進んでいる。

強み、弱みを上司と話し合う
人材アセスメント制度

 成果によって賃金格差が生まれる成果主義の運用で不可欠なのは、誰でも成果を獲得できる公正・公平な競争環境が用意されていること、そして成果を獲得するうえで必要な能力を得る機会、つまり人材育成投資が十分に行われていることである。その点、同社は新入社員から幹部社員にいたるまで数多くのメニューが用意されている。とくに入社後8年間は教育期間と位置づけ、人材育成に注力している。

「伊藤忠の企業理念や諸制度を学び、基本となる知識・スキルを習得する新入社員研修はもちろん、新入社員全員を入社4年目までに3〜6カ月間、アメリカなど英語圏に派遣し、国際ビジネス社会に通用する語学力の習得や国際的視野の養成を目指しています。その間は現地の駐在員はタッチせず、ホームステイを通じて英語漬けとなり、すべて自分でこなすことになります」(石塚人事部長)

 さらに、入社後2、4、9年目の社員を対象に、将来のビジネスリーダーや経営者育成に必要な基礎知識やスキルを学ぶプログラムも用意している。具体的には外部の講師によるマーケティング、経営戦略、組織・人材戦略、財務、リスクマネジメントなどを習得する。

 また、入社10年目前後の社員を海外の大学院に派遣するMBA研修もある。若手だけではない。課長・部長を対象にした組織長研修、事業会社役員や事業主管部長を対象にした経営者スクールも用意されている。もう一つ、同社の特徴的な育成の仕組みとして個人の強みと弱みを分析する「人材アセスメント制度」がある。用意されたアセスメントシートに部下本人と上司が記入し、その結果をもとに、たとえば不足する能力を向上させるにはどうするかを話し合う。

「リーダーシップや協調性など本人の強みと弱みについて上司とすり合わせることによって気づいてもらう。研修とセットになっており、強い面をさらに伸ばし、あるいは弱い面があれば、上司からこういう研修を受けたらどうかと提案します。上司には面談をもとに部下の意見を聞きながら、どういうふうに育てていくのか毎年レビューを提出してもらうことにしています」(石塚人事部長)

 会社に命じられて行う日々の仕事に部下が必ずしも満足しているわけではない。また、その仕事の結果が低い人事評価の点数として表れれば当然不満も発生する。本人がやりたい仕事は何なのか、それを実現するにはどういう能力が必要かについて「中・長期の視点で部下と上司が話し合うことに意義がある」(石塚人事部長)という。こうした人材育成重視の姿勢は成果主義の成否に関係するという調査結果がある。人材育成重視企業では成果主義導入後、社員の「評価の賃金・賞与への反映に関する納得感」が高まり、逆に人材育成を重視していない企業では納得感が低下する傾向があるというものだ(労働政策研究・研修機構「新時代のキャリアデザインと人材マネジメントの評価に関する調査」06年)。

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 同社はさらにもう一段、人材の底上げを目指した新たな人材育成に乗り出している。丹羽会長が座長となり「仕事と人生」をテーマとする中堅社員向けの「青山フォーラム」を04年9月から開講している。いわゆる経営実務の習得ではなく「今までの経営の成功例と失敗例を紹介し、その本質とは何かを探るだけでなく、丹羽さん流の人生哲学と経営哲学も披露し、それを通じて伊藤忠の文化・伝統をきちっとつないでいきたいという熱い思いで生まれた」(石塚人事部長)。

 経営者の資質として必要な常識と良識の習得を目指し、具体的には社内外の経営者を招き、自ら「仕事と人生」について本音で語ってもらい、仕事への取り組みだけではなく、人生についても深く考える機会を与える一方、受講生同士の議論やプレゼンテーションも行う。

 伊藤忠の一連の改革を振り返るとき、最大の眼目は「人」の改革であったといえる。その背景には人を信頼し、人は変わりうるものであるとの強い信念と同時に教育投資によって人は能力を開花させるという人的資源論重視の姿勢がある。同社は06年3月期に史上最高益を計上した。その意味では改革は成功したといえるかもしれない。だが、先の丹羽会長の発言ではないが、人の改革は始めがあって終わりのない戦いでもあり、企業にとっては永遠の課題であることは間違いない。

 
 
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