消費者の生活に深く入り込む
「経験価値マーケティング」

 
 
マス・マーケティングの反省の中から生まれたのが、ブランド・マネジメントである。
しかし、その落とし穴はブランドのアイデンティティの議論が抜け落ちてしまうことにあった。
そこで筆者は、「経験価値マーケティング」という新しい手法を提案する。
 
 
神戸大学大学院経営学研究科教授
石井淳蔵 = 文
text by Junzo Ishii
いしい・じゅんぞう●
1947年、大阪府生まれ。神戸大学大学院経営学研究科博士課程終了。同志社大学教授を経て、現在神戸大学大学院経営学研究科教授。専攻はマーケティング、流通システム論。
著書に『ブランド』『マーケティングの神話』『営業が変わる』などがある。
尾黒ケンジ = 図版作成
 
 

「愛着」を喚起しにくい
マス・マーケティング

 マス・マーケティング。圧倒的なマーケティング力を背景にしたマーケティング。大量の広告投資、店頭を席巻する圧倒的な営業力と販促力、次々に開発される新商品。それは現代の花形マーケティングだ。だが、その効果が最近になって疑問視されているように思われる。そのやり方の核心が「万人向け」という点にあるとすれば、反転して「自分だけのモノが欲しい」と考える消費者、商品を「愛着」という要素で選ぶ消費者が多くなっていないだろうか。これまでのマーケティングに比べて、情緒的価値を訴え、消費者との対話的な関係を強化することが重要だと考える必要はないか。これが、今回のテーマである。

 昨年、日本マーケティング協会において、わが国のマーケターに向けた大規模なマーケティング・リサーチが行われた。それは、各社が現在とっているマーケティング戦略や組織の現実を知るためのリサーチであった。「マーケティング活動を、どの程度アウトソーシングしているか」とか、「市場情報をどのように組織の情報としているか」といった新しい視点もあって興味深い企画であった。その詳しい内容はまたの機会に譲るとして、私が興味を持った一つの質問とその回答があった。それは、次に示される質問である。

●「マーケターとして、マーケティングの役割および目的を、どのように認識されていますか? 重要と思う項目を選んで下さい」

 1 売上シェアの拡大

 2 営業・販売のサポート

 3 広告コミュニケーションの浸透

 4 ブランド・マネジメント

 5 差別力のある商品(サービス)の開発

 6 顧客との関係性の構築

 7 顧客満足の向上

 8 収益性の向上

 9 経営ビジョンの表現

 10 他社に真似されない競争優位

 11 企業の持続的成長

(社団法人日本マーケティング協会「『事業のビジネス戦略とマーケティング』に関する調査」2005年5月、より引用)

 質問の回答選択肢は少し散漫な気がしないではないが、「マーケティングの役割」と巷間言われている要素を整理したものであり、その点では過不足ない。

 私の予想で言うと、回答は「ブランド・マネジメント」とか、「顧客との関係性の構築」とかといった項目にかなりの人気が集まるのではないかと考えていた。というのは、最近のマーケティング論の流行(?)はブランド・マネジメントや関係性マーケティングだからだ。

 しかし、予想は外れた。回答は、5の「差別力のある商品(サービス)の開発」に集中した。回答者の68%が「非常に重視している」と答えた(「重視している」と合わせると96%。質問は5点尺度)。4の「ブランド」については、「非常に重視している」が30%、6の「顧客との関係性」については39%であった。「差別力のある商品」の人気は圧倒的に高かったのだ。

 差別力のある商品が欲しい。これは、日本の事業経営者やマーケターが本来的に持っている特徴かもしれない。

 振り返ってみれば、日本のマーケティングは、まず流通網を押さえることが眼目であった。その流通網を押さえるためには、商品の広い品揃えと他社に後れをとらない新商品開発が不可避である。このマーケティングのやり方を実行するには、流通を押さえる営業パワー、営業パワーを支える商品開発パワーと広告パワーが必要になる。まさに、最初に述べたマス・マーケティングである。「最大のマーケティング・パワーをつくり出す重装備マーケティング」ともいえよう。日本を代表する消費財企業のトヨタ自動車、松下電器産業、資生堂も、このやり方をとってそれぞれの業界の覇権を確立し維持してきた。しかし、このやり方をこれからも続けていけるのか。

 その反省の中からブランド・マネジメント志向が生まれた。マーケティング・パワーを最大限発揮するやり方は、どうしても新商品開発が中心になり、結果的に新商品が出るごとにマーケティングのやり方を一回一回リセットしながら進めていく体制になりやすい。商品が新たに出るごとに、ネーミングを変え、コミュニケーションのすべてを変える。長期で見ると、マーケティングは継続せず、常にリセットされ続けることになる。

 ブランドを軸とするマーケティングはそれとは違う。花王の「メリット」や大正製薬の「リポビタンD」やネスレの「ゴールドブレンド」は、ネーミングはもちろんコミュニケーション・テーマも変わらない。百年一日のごとく、同じテーマを繰り返しわれわれに訴える。マーケティングの多くの要素は継続されるので、ずいぶんマーケティング・コストは下がる。

 こうして、先進的メーカーのマーケティングにおいてブランド志向が顕著になってきた。だが、注意しないといけないのは、ブランド・マネジメントは多くの場合、ブランド・パワーをベースに組み立てられるマネジメントだという点にある。認知度や理解度や満足度などといった「あらゆるブランドに共通する」一般的指標でもって、ブランド・パワーは測定される。そこでの落とし穴は、一般的な議論になりすぎて、当のブランドのアイデンティティの議論が抜け落ちてしまうことにある。その意味で、先のマス・マーケティングの場合と同じように、「万人志向のマーケティング」となってしまいがちになる。そこに、新しいマーケティングが誕生する余地がある。それを、私は「経験価値マーケティング」と名づけたい。

分析の外に置かれる
「消費者の視点」

 経験価値マーケティングは、ブランド・マネジメントの彼岸にある。その特徴は表に掲げる四つの点に集約できる。

 順に見ていくことにしよう。

●情緒的価値の強調

 ブランドには、安心とか親しみ、あるいは信頼とか信用とかといった要素はもちろん大事である。だが、それは万人に通じる価値であるため、ほかのブランドとの差異性を打ち出すのは難しい。ブランドには、それに加えて、「これは自分のモノ」とか「愛着」とかいった要素が重要になる。

 ポイントは、ブランドへの愛着は、商品・ブランドの機能・効能で構成されるものではないということである。消費者の生活に、経験に入り込んだ情緒的価値がカギになる。

●カテゴリー概念の放棄

 情緒的価値を持ったブランド。これが、マーケティングの課題となったとき、やるべきことは何か。まず、「消費者の生活における、その商品・ブランドの意味(の領域)」を問わないといけない。そのために、「製品カテゴリー」概念を捨て去る必要がある。

 しかし、多くのマーケターのやり方は製品カテゴリー概念にこだわる。マーケターは、(1)市場の選好マップをつくり、(2)消費者の好みや年齢等の軸を用いて市場における選好分布をマトリクス表で表し、(3)そこに自社商品や競合商品をプロットし、(4)そして進出可能な細分市場を見つけてそこに合った商品を開発し投入する、というやり方だ。市場をセグメンテーション(segmentation)し、顧客をターゲティング(targeting)し、商品をポジショニング(positioning)するSTPと呼ばれる手法だ。

 この手法はマーケターの得意とするやり方で、悪いわけではない。問題は、製品カテゴリー(あるいは、市場と競合)を所与としてしまっていることである。つまり、そのやり方は、消費者の選好マップを表現すると言いながら、マーケターの目から見た市場マップでしかない。実際に、その商品を、消費者が、自分の生活の中において、どのようなものとして見るのか、つまり「消費者の視点」は分析の外に置かれる。消費者の視点は、多くの場合、製品カテゴリー概念を超えたところにある。

●消費者インサイトの探索

 消費者の視点を取り込むために何が必要か。消費者が、その商品を自分の生活経験の中に置いたとして、「どのようなものとして意味づけするのか」を理解することである。消費者理解のためには、「消費者が持つインサイト」を知る必要がある。

「きっと勝つ」でニーズを
ひき出した「キットカット」

「キットカット」は「きっと勝つ」キャンペーンで大成功を収めたが、もともとのブランド・コンセプトは、“Have a break”である。だが、それをそのまま消費者に伝えたところで、消費者からの反応は乏しい。しかし、それが「きっと勝つ」という言葉に翻訳された途端、消費者は強く反応する。「きっと勝つ」という言葉の中には、受験を控えた若者に対し「強いストレスを解放する(ひと息つく)」という消費者ニーズが隠されていたわけである。これは、マーケターにはすぐにはわからない消費者インサイトである。

 マーケターは、まずもって消費者インサイトを発見する必要がある。それは、消費者との対話的な関係の中でしか発見できない。だが、それを発見できて初めて、消費者の生活経験に深く入り込み、競争上の差別性を確保できる。

●コミュニケーション手段としてのデザイン

 消費者インサイトをベースに、ブランドのコミュニケーション・テーマが定まる。次は、それを伝える方策である。大量の広告を投資し、強力な営業力を駆使して顧客に向け店頭で販促を行う。これは、マーケティングの常套手段だが、このやり方だけでどこまで通用するのか。

 現在、大量の情報にさらされた消費者はそれを処理する技術を備えている。いくら世間が騒いでいても、「それは自分に関係ない」ものとして、無意識のうちに世間に溢れる大量の情報を避ける。「それは自分には関係のない話だ」と思っている消費者に、「うん、関係するかも……」と思わせることが、メッセージを出す側としては重要なのだ。異性へのプロポーズと同じで、圧倒的なコミュニケーション露出はそのためにも有効かもしれないが、逆にいくらやっても効果がないということもありうる。ひと工夫必要なのだ。

 消費者の視点を、無意識のうちに変えさせる。そんな器用なことができるのか。一つの可能性は、商品のデザインである。あるデザイナーは、「デザインを通じたコミュニケーションは、その存在に気づかないうちにコミュニケーションが成就するような、密やかで、精密で、それゆえに強力なコミュニケーションである」と言っている(原研哉『デザインのデザイン』岩波書店)。iPodは、20ギガバイトの容量を提案できたのだろうが、それより白いイヤホンを打ち出しブランドの洗練性を印象づけるとともに、消費者の愛着心をかき立てたのである。

 以上の特徴を揃えたマーケティングは探してみると思いのほか、あちこちの業界で幅をきかせ始めているのではなかろうか。

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