ビジネススクール流知的武装講座

「撤退」の意思決定が難しい三つの理由

 
 
撤退を決めるということは、基本的には損失額を確定することを意味する。
人間は「撤退を決定して確定した損失額に直面する」よりも、
「このまま頑張って何とかする」というほうを自然に選び取ってしまうのだ。
トップマネジメントが意思決定を下す際は、
この人間の心理的なバイアスを意識しておく必要がある。
 
 
一橋大学大学院商学研究科教授
沼上 幹 = 文
text by Tsuyoshi Numagami
ぬまがみ・つよし●
1960年、静岡県生まれ。一橋大学社会学部卒。同大学院商学研究科修了。成城大学専任講師を経て、現在、一橋大学大学院商学研究科教授。専攻は経営組織論、経営学方法論。
著書に『組織戦略の考え方』『液晶ディスプレイの技術革新史』『行為の経営学』などがある。尾黒ケンジ = 図版作成
 
 

意思決定に不可欠な
「いつ」という要素

 撤退は難しい。撤退のタイミングをどうするか、どういうステップで退いていくのか、取引先や顧客にいつ伝えるか、という戦略的シナリオづくりという点でも難しいし、組織メンバーに撤退を納得させ、腐らせないようにするのも至難の業である。だからトップマネジメントが撤退を決断するのに逡巡することは容易に理解できる。しかし、「取引先に迷惑をかける」とか、「社員の『思い』を考えるとなかなか難しい」といった配慮をまったく無視したとしても、撤退を決断するのは難しく、注意が必要である。そもそも人間の心理として、いったん始めた事業から撤退するというのは難しいのである。

 まず第一に、現状維持とは異なることを行うこと自体が難しい。新規事業を興す場合にも、既存事業から撤退する場合にも、「これまで通り」から外れる初めの一歩を踏み出すことが難しいのである。その理由は、「撤退する」とか「新規参入する」という基本方針を決める意思決定に、かならず「いつ」という要素が入ってくるからである。たとえば、半年後までに撤退するためには、いま撤退の意思決定を下さなければならないと考えよう。このとき、決定するのを少しだけ先に延ばして、「明日」になってから決定してもそれほど大きな問題が発生しないというケースは多い。その「明日」になれば、またその次の日にしても、状況は大きくは変わらない。よほど毎日大量の出血を生み出している事業でないかぎり、いつ決断するかがあいまいなまま時が過ぎていってしまうのである。

 もちろんこの程度の難しさなら、対処はそれほど難しくない。トップマネジメントの意思決定に「締め切り」を突きつければいいのである。「締め切り」に客観的な意味はないとしても、組織内の仕事が様々な「納期」を取り決めて進められていることを考えれば、撤退の意思決定にも「納期」を設定しておくことで、ただ単に「決められないままズルズル」という問題は発生しにくくなるであろう。その点では、何年までに何を再検討し、GO/NO GOを決めると記しておくだけでも、フォーマルな経営計画は役に立つことがある。

実験結果からわかる
「心理的なバイアス」

 撤退を決断するのが難しい二つ目の理由は、人間が一般的に「損切り」を不得手としている、ということである。この点はトゥベルスキー&カーネマンという心理学者の実験を考えてもらうとわかりやすい。彼らの行った実験の一つを日本風にアレンジして再現しておくので、計算をせずに、極めて直感的に次の選択肢を考えてみてほしい。

「東南アジアで新しい病気が発生し、それが日本で大流行しそうな状況にあり、厚生労働省はその病気に対する準備をしています。この病気と戦うための二つの医学研究プログラムが提案されていて、この二つのプログラムはそれぞれ次のような効果をもつと予想されています。あなたはどちらのプログラムを選びますか。

問1

(1)プログラムA:プログラムAが採用されれば、確実に200人が救われる。

(2)プログラムB:プログラムBが採用されれば、3分の1の確率で600人が救われ、3分の2の確率で600人が死ぬ。

問2

(1)プログラムC:プログラムCが採用されると400人が死ぬ。

(2)プログラムD:プログラムDが採用されると、誰も死なない確率が3分の1、残り3分の2の確率で600人が死ぬ。

 読めば即座に明らかになるように、どちらの問いでも選択肢の期待値は同じである。結果の確定している選択肢を選ぶか、それともリスクの高い選択肢を選ぶかが問われているのである。トゥベルスキー&カーネマンが大学生を被験者として行った実験の結果では、問1については72%がプログラムAを選び、残り28%の学生がプログラムBを選んだ。また問2については、78%がプログラムDを選択し、残り22%がプログラムCを選んでいる。つまり問1では結果の確定した選択肢を選び、問2ではリスクのある選択肢を選んでいる、ということである。

 それでは問1と問2の違いは何か。読者の中にはすでに気づかれている方も多いかと思われるが、問1では問題が「ゲイン(救われる人数)」で表現され、問2では問題が「ロス(死亡する人数)」で表現されている。要するに、人間は「ゲイン」で表現される問題では結果の確定した選択肢を選び、「ロス」で表現される問題ではリスクを取るようになる傾向がある、ということである。利益を得るときには冒険はせず、失う場合は破れかぶれの賭けに出るのである。

「損切り」とか撤退が難しい理由はもうおわかりであろう。撤退の意思決定は次のような選択肢に直面することを意味する。

(1)この事業から撤退すると、撤退した時点で80億円の損失が確定する。

(2)このまま事業にとどまって努力すれば、80%の確率で100億円の損失を被るが、20%の確率で収支トントンにできる。

 撤退するか否かは基本的には「ロス」で表現される問題である。このとき、撤退を決めるということは損失額を確定することを意味する。逆に、そのまま事業を継続するのであれば、確率は低くても累損を解消できるときが来るかもしれない。

 このように考えれば、人間は「撤退を決定して確定した損失額に直面する」よりも、「このまま頑張って何とかする」というほうを「自然」に選び取ろうとする傾向をもつのである。その事業の当事者たちも「あと少しだけ自分たちの事業にチャンスを与えてほしい」と上申し、それを受けたトップマネジメントも「もう少しだけやらせてみるか」という決定を下す「自然」な傾向をもつのである。

 人的資源や工場設備などを転用できる新規事業機会を豊富にもっている企業であれば、この種の問題を回避する方法がある。「この事業から撤退すれば、そこに投入している人的資源を用いて他の事業で確実に100億円の利益を出すことができる」というように、撤退の問題を「ゲイン」として表現すればいいからである。

 しかし、そもそも撤退の決定が難しいのは、そのような成長機会に恵まれていない企業であり、そのような企業では撤退の問題を「ゲイン」によって表現するという手は使えない。表現方法を変えることでこの心理的なバイアスを回避することができないのであれば、残念ながら、残された手は「常にこの種の傾向があるのだということを意識する」という程度のものしかない。「意識する」というのはずいぶん単純素朴ではあるが、それでも「無知」であるよりまだマシだと考えるしかあるまい。

「君子豹変する」ために
必要な「神話」とは

 撤退の意思決定が難しい三つ目の理由は、人間が自分の思考と行動に一貫性を求めるという点である。誰しも自分が一貫した考え方をもち、一貫した行動をしていると思いたがる。だから、自分の思考と行動が矛盾している場合、人間は行動を変えるか思考を変える。「人間は思考に合わせて行動を変える」と考えたがる人も多いだろうが、過去に行ってしまった重大な行動は変更ができないから、考え方のほうを変えざるをえない場合も多い。しかもすでに行ってしまった行動によって大きなコストが発生しているほど、考え方のほうを変える圧力は強くなる、という傾向がある。ということは、苦労したものほど、適切な手を取ったのだと自己正当化する論理が生まれてきやすい、ということになる。

 たとえば苦労して入った大学ほど、入学後の授業がどれほどつまらなくても、「良い大学に違いない」という気持ちを強めることになる。なぜなら、「あれほどの努力を払った」という過去の行動と、「つまらない大学である」という考え方の間には一貫性がないからである。一貫性を確保するためには、「良い大学である」という考え方のほうを強めるしかない。

 新規事業への進出も同様の思考変化を人々にもたらす。その事業に進出するという意思決定と、その後の苦労は取り消すことのできない所与の事実である。経営者が当初はそれほど重要な事業ではないと思い、いつでも撤退可能だと考えていたとしても、いったん進出するという意思決定を下した後では考え方が変わってくる。

 多くの取引先に苦労をかけ、自社の社員たちにも苦労をかけたという事実が発生した後で、「そもそも重要でない事業に軽い気持ちで進出したのだから、素早く撤退をしよう」とは言えなくなるし、そのように考えられなくなってしまうのである。かかったコストが大きいほど、「自社にとって重要な事業である」という考え方が強く発達してくることになる。「利益は出ていないが、わが社のコーポレートブランドに重要な貢献をしている」とか「長い目で育成するという視点から見ると、こういう苦労する事業こそ会社の未来を支えるものなのだ」といった「神話」がささやかれ始める。撤退の基準が利益や売り上げなどの数字で表せるものではなくなり、あいまいになり、決断を下すきっかけを失っていく。

 こういうときに、「なぜこんな馬鹿げた事業に進出したのですか」と過去の意思決定ミスを追及するような発言を行うことは破滅的な結果につながりやすい。「あのときの意思決定は正しかった」と考えるための理屈はいくらでも考えつくからである。その理屈はたいていの場合くだらないものである。しかし、現状の改革にとってまったく前向きな意味をもたない理屈でも、「自分の意思決定は正しかったのだ」と経営者が自分を納得させ、批判の眼差しを向ける部下を「ダメなヤツだ」と決めつけるには十分役に立つ場合がある。過去の意思決定ミスを追及して相手を追い込むよりも、むしろ環境が変わった所為にするほうが撤退を促進し、組織の暴走を止めるうえでは得策である。「君子豹変する」ためには、環境の激変という「神話」がしばしば必要とされる。皮肉なことであるが、環境の所為にして自分の責任を考えない無責任な組織のほうが、責任感の強すぎる人々からなる組織よりも破滅を避けられるのである。

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