対中進出する中小企業は
「経営者を現地化」せよ
日本の中小企業は「現地化」に対する取り組みが遅れていると指摘する。
それも「経営者の現地化」だ。最近、リサーチした中小企業2社から、
あるアイデアを見出した。これから、中国へ進出しようとしている中小企業は、
何をすべきか。それは、信頼できる現地スタッフの養成である。
中国に進出した日系中小企業の弱点
日本企業の中国進出は、プロジェクト件数で見る限り2万件を超えている。1990年代の中頃までは、「安くて豊富な労働力」を求めて「輸出生産拠点」の形成を目指すものが多かったが、21世紀に入ってからは、中国国内市場を視野に入れるものも増えてきた。日本国内が“失われたとき”を重ねているのに対し、中国がひたすら右肩上がりの成長を続けている限り、日本企業の視線が中国に向けられるのも無理はない。ここでは、最近出合った注目すべき二つの中小企業の動きから、中国に進出することの意味を見ていく。
中国進出という点で、台湾や韓国と日本の中小企業の大きな違いは何か。それは、台湾、韓国の中小企業経営者は家族と一緒に現地に駐在しているケースが少なくない。一方、私が知っている中国に進出している日系の中小企業・約500社程度のうち、経営者が駐在している企業は3社しかない。それらは、いずれも大成功を収めている。
家族とともに移住した「四代目」の決断
現在の中国のように、動きが早い国では迅速な判断が必要とされる。日本の中小企業の場合は、経営者と従業員の間には意思決定能力に雲泥の差がある。そのため、判断が遅れ、致命的な事態に追い込まれる。社長が現地にいないとダメなのである。
また、「縮む居心地の良さ」に身を委ねている日本の中小企業の場合、中国の状況を的確に見ようとしない。見たくないのかもしれない。見れば、自分の仕事がいかに時代遅れかを痛感するだろう。「現実」を冷静に眺め、そして次に自分のあるべき姿を構想し、実践していくべきと思うのだが、そうはいかない。日本の経営者の多くは、過去の成功体験の「思い出」に身を委ね、新たな取り組みをすることに臆病になっている。
さらに、日本の中小企業経営者の多くが、世界的な視野を身につけていないことも問題だ。現在、少なくとも東アジア諸国地域は多面的かつダイナミックに動いている。新たなビジネス・チャンスが大きく広がっている。だが、日本の多くの中小企業の経営者たちはそうしたことにほとんど無関心であり、自らそこに飛び込んでいこうとしないのだ。
中国広東省深セン市郊外の観欄鎮桂花村。日本の中小企業の「駆け込み寺」といわれる深センテクノセンターの奥まった一角に、「ヒサダ」の中国工場が展開している。ヒサダは戦前に時計・自転車部品のプレス加工業として名古屋でスタートした。戦後は洗濯機、扇風機等の家電用プレス部品、防衛庁関係の自動小銃用弾倉等のプレス部品などを手がけてきた。近年は東芝の家電関係のプレス加工が多かった。だが、その後、東芝は家電製品をタイに全面的に移管する。ヒサダは必死に国内で仕事を集めようとしたが、世の中全体のコストダウン要求は厳しく、利益率は急速に低下していった。
「日本でやっていたのではダメになる」と考えた四代目社長の久田泰氏(1957年生まれ)はアジア諸国を調査し、「中国広東省の若い労働者の顔が輝いている」と判断。2002年1月に60トンプレス機1台を抱えて、深センテクノセンターに飛び込んでいった。「日本の仕事は中国に持ってこない。当面、受注先は全くない」ままスタートした。
当初の従業員は5人。優れた日本の中小プレス加工業が進出してきたとして関心を抱かれ、スタート早々に20部品が打診された。現在では約20の受注先を確保するまでに至っている。この間、従業員規模も02年4月には10人、03年11月には85人になった。さらに、機械設備も次第に充実し、03年末現在、250トンから350トンまで、操業1年半でプレス機は11台に増加している。
久田氏は会うたびに「元気」になっていく。当初は日本と深センを半々ぐらいで往復していたが、今年の春に会ったときには、「1年前から、家族といっしょに香港に住んでいます。日本に行くのは月2〜3日かな。日本のほうは会長(父)が見ています」と語っていた。
長年、中国の現場を見てきた私は、日本の中小企業の中国進出に関する最大の問題は最高責任者である経営者が中国に駐在していない、という点にあることを指摘してきた。経営者の駐在していない日本の中小企業の場合、急激に変化していく中国事情についていけず、韓国、台湾企業の後塵を拝することが少なくない。ようやく、日本の中小企業の中にも、家族帯同で中国に駐在する社長が登場し始めたということであろう。
「操業開始して2年。どんな印象ですか」という私の質問に、久田氏は「原点に戻った感じがする。中国人の従業員は、教育すればすぐに覚え、仕事をきちんとしてくれる。日本で若い人を教えるより、こちらで教えるほうが気持ちがいい」と答えた。
かつて、ヒサダの従業員は日本に50人ほどいたが、次第に減少し、現在では約30人。「もっと減る」と久田氏は語っていた。現在の日本の年商は約10億円。それに対し、中国工場は3億5000万円まできた。2年以内に逆転する見通しだ。その場合、今後、日本の工場はどのようにしていくのか。中国でエネルギーを高めている久田氏にとって次の課題は、中国工場の現地化をいっそう進めていくことと、日本工場の再生なのかもしれない。
山形県寒河江市の後藤電子。二代目社長の後藤芳英氏(1959年生まれ)の母は、中高年婦人を20人ほど集め、内職のような形でコイル巻きをしていた。大学4年の夏に就職の相談のために帰郷した。だが、母は「湯治場に行く」と言い置き、半年も帰ってこない。中高年婦人たちの世話をしているうちに、就職する機会を逸し、家業を継ぐ羽目になった。
「カラオケ屋」を開店した社長の狙い
やむなく家業を継いだものの、この仕事が国内でいつまでも続けられるわけはないと考え、アジアのどこかに移すことを模索する。零細企業ゆえに人気のある場所に行くと踏みつぶされると考えた。
アジア中を回り、とりあえず日本との直行便のあった上海に着地し、85年、国有企業に委託することから始めた。さらに、当時、誰も来ないだろうと思われた浦東地区に目をつけた。89年11月には合弁の認可を受け、90年7月から操業開始している。浦東に進出した外国企業としては世界で2番目、日本では最初であった。
2年前に新設された浦東の工場は、従業員約2500人。駐在の日本人はわずか2人。「それでやれるのか」と言う私の問いに、後藤氏は、次のように答えた。
「85年頃から中国へ行っている。87年から94年までは毎年、半年以上は現地にいて、毎日、村の幹部と宴会をしていた。彼らの子供の何人かが『大人になったら、後藤電子に入りたい』と言っていた。彼らを可愛がり、何人かは日本に留学させるうちに、そのまま当社に入ってきた。従業員のうち、先に親を知っていた連中が20人はいる。だから任せられる」
中国人たちと親交を深めることはできたが、毎日、あびるほど白酒を飲まされた。そこで後藤氏は、「このままでは、死んでしまう。撤退するか、カラオケ屋をやるかのいずれしかない」と考えた。そして、残ることを決意し、89年にカラオケ屋を開店した。中国人たちを自分の土俵(カラオケ屋)に引きずり込みタダで飲ませることで、後藤氏自身は、酒の量を控えることができた。「これで助かった」と振り返っていた。
私も中国事業は「受け」に回るべきではなく、「攻め」て、こちらのペースに引きずりこむことだと思っているが、まさに後藤氏の発想はそれだ。後藤氏は孤軍奮闘、異国の地で激しく生き抜いてきた。この浦東の工場は完全に軌道に乗り、昨年、後藤氏は一度しか訪れていない。現在、後藤氏は日本国内では、床暖房、融雪機等の内需型の、中国工場とは全く異なった興味深い事業に踏み込んでいる。
最後に、日本の中小企業にとって、今後、中国に進出するうえでの課題を提示しておく。
まず、多くの中小企業にとって、今後、中国進出は死活的な意味を帯びてくることから、経営者自ら中国に駐在するほどの取り組みが必要とされる。仮に、それが難しい場合でも、月の半分ほどは中国の「現場」に立ち、その動きを見逃さないことが重要となる。特に、日本企業は判断が遅いとされるが、果敢な意思決定が必要であることはいうまでもない。こうしたあり方を「経営者の現地化」と言う。さらに、もう一つの「現地化」として、後藤電子のように、信頼できる現地スタッフの養成が不可欠であることはいうまでもない。
おすすめコンテンツ
-
- 書籍
- 新・挑戦する独創企業
- なぜ、この会社はこだわり続けるのか!











