特集/行動する力

私の体験!「職場の呪縛」はこう解いた
── 温情心 ──

私が目撃した名監督の「愛情と非情」

 
 
星野の「情」には「感情」の「情」だけではなく、
「勘定」の「定」がある。
 
 
高田実彦 = 文
text by Mitsuhiko Takada
 
 

 プロ野球の現場における監督のマネジメントが、そのまま企業社会に通用するとは思わないが、名監督と呼ばれる男たちの「人使いの妙」を勝負の世界で目の当たりにするたび、組織における人の動かし方に普遍性を感じることは多々ある。

 選手への「温情ある人事」と勝利に対する「理の采配」。一見、交わることないこのふたつが交差するときに、損得を超えたところで、選手を行動に駆り立てる何かがあるようにおもえてならない。

鶴岡に始まり星野へ続く
プロ野球「情の監督」の系譜

 プロ野球の監督で最初に「親分」と呼ばれたのは、南海の鶴岡一人監督である。この「親分鶴岡」の由来は、次のようであるといわれている。

 戦後、プロ野球が再開されて間もなくの昭和21(1946)年7月の巨人対南海戦で、別所毅彦が完投して戦後初、戦前の昭和18年以来、3年ぶりの勝ち星を挙げた。別所はうれしさのあまり、試合の後、涙が流れて仕方なかった。そこへプレーイングマネジャーだった鶴岡が走ってきて、被っていた帽子をとると、別所の汗と涙でグシャグシャになっている顔をぬぐった。そのときである。別所が思わず、「親分!」といって抱きついたという。これが「親分」の誕生である。

 鶴岡の「義理と人情」にまつわる話はたくさんある。日本最初の“情の監督”だったといっていいだろう。この系譜を継いだ最近の監督が星野仙一だった。星野は中日で二度にわたって都合11年間、阪神で2年間、監督を務めた。星野の「情」は、“子分”みたいな関係にあった選手に「斬る情」を見せてその選手に感謝され、またさすが、といわれる手腕を見せた。

 その一人、大島康徳の場合はこうだった。

 高校出の大島と星野は年齢で四つ違いだが同じ年に入団し、同じ寮生活を送った仲だった。その大島に第一次中日監督時代の1年目が終わった秋、「来年はベンチにいることが多くなる。自分でもそう思うだろう?」と話しかけた。このとき大島はプロ19年目。衰えてはいたがまだ十分に存在感があり、地元で人気抜群のスターだった。しかし星野は、優勝を狙う来年は、ベンチに置くことが多くなるだろうと考えていた。黙っている大島に続けた。

「日本ハムに行ってもらいたいと思っている。DHならまだやれる。それに東京で勉強してこい。きっと自分のためになるぞ」

 セ・リーグ一筋できた選手がパ・リーグに移籍をいわれるのは、いってみれば格下の部署への配転みたいな感じを受けるものである。大島は内心では、引退―コーチ昇格の路線が見え始め、さらにその先にポスト星野の夢を抱いていなかったといえばウソになるだろう。だからショックだった。しかし、いままでの星野との信頼関係から“排除”されたという感じは受けなかった。

 同時に、消えそうになっていた現役続行の未練に火がついた。まもなく「新天地でもう一度!」という気概が出てきたという。大島は日本ハムに移って、それから7年間も現役生活を送り、39歳10カ月で、めでたく2000本安打を記録した。当時の最年長達成記録である。

「あのまま中日に残っていたなら名球会には、確実に入れなかった。監督になれたかどうかは、もっとわからなかった」

 その大島が現役を引退したとき、星野はNHKに強力に推薦して解説者にしてもらっている。当時、視聴者には「どうして大島が?」という疑問があったが、裏に星野がいたのだった。

 やがて日本ハムの監督になった大島は、迷わず星野と同じ「77」を背中に背負った。

 星野は、「拾う情」も見せている。この例もたくさんあるが、大豊泰昭のケース。自分が移籍させた大豊が阪神を自由契約になると、星野は中日のフロントに掛け合って呼び戻した。大豊が“子分”だったからではない。「これからアジアがいい素材の宝庫になる。台湾はもうそうなっている。日本と台湾の間のことで、彼ほど使える男はほかにいない」というのが大豊呼び戻しの理由だった。

 また、阪神の監督になって1年後、久慈照嘉が中日を自由契約になった。直ちに採用して契約した。久慈は星野が中日監督のとき、阪神から関川浩一らとともに入れた選手だったが、その関係から拾ったのではない。当時の阪神のショートは数人で争っていたのである。「あいつの守備は天下一品だ」と評価しての採用だった。

 星野は、人に対して「情」をかけ、組織に対して「理」を優先するのだ。

 星野の「情」は現役時代からのものである。有名な「宇野勝のヘディング・エラー」では、試合後、打ちしおれている宇野を誘って食事に行った。当時の中日担当記者は、「宇野の部屋に星野の写真が飾られたのはこのときだった」と書いている。また、星野の現役終盤に台湾からやってきた郭源治が来日初勝利を挙げたとき、監督でもコーチでもないのに、星野は背広を贈ってお祝いをしている。郭の宝物のひとつであるという。

 こういう星野を見ていると、星野は、人をうまく使うために「情」を用いるのではなく、人の喜びや悲しみの局面に出合ったとき、素直に気持ちを表すことができる男であることがわかる。私事で恐縮だがついでに書いておくと、私が東京中日スポーツを定年になったとき、選手と記者という関係以上のものはなかった私に「1001モデル」のゴルフセット一式を贈ってくれた。

 星野はたいていの場合、“子分”や“生え抜きのスター”であっても力の衰えた選手を温情で試合に出したりチームに残したりということはしなかった。力のある男に「情」をかけて、使った。その意味で星野の情には、「感情」の「情」だけではなくて、適当な表現が見つからないが、「勘定」の「定」があるようである。右手に「情」、左手に「定」といってもいいだろう。

 星野の少し先輩の広島時代の古葉竹識にも「情」にからむいくつかの話がある。有名なのは衣笠祥雄の連続試合出場記録のために、負けを覚悟して衣笠を出し続けた采配である。「チームの1勝は大事だが、後々まで残る日本的な記録はもっと大事」という判断である。衣笠も、腰が痛くてたまらないときも古葉の気持ちを酌んで打席に立った。この「情」を阿南準郎が引き継いで、衣笠の17年にわたる2215試合連続出場の記録がつくられた。

 古葉は、昭和50(1975)年の5月半ばから監督を継いで赤ヘル旋風を巻き起こして初優勝するのだが、「勝てば優勝」という対巨人戦で、先発捕手に第二捕手の若い道原裕幸を起用した。正捕手は中堅の水沼四郎だが、道原のほうが肩がよかった。最後まで万全を期したのだ。道原は外木場義郎と呼吸を合わせて8回まで巨人を0に抑えてきた。9回表、ホプキンスが3ランして広島が4対0とリードした最後の守りである。「あのときは迷いました。理屈ではリズムよくきている道原ですが、気持ちとしては水沼に最後の花を持たせてやりたいと」。古葉は迷いに迷った末に水沼への交代を審判に告げた。

 これが、球界大先輩の巨人V9の川上哲治監督になると、かなり様相が異なっていた。今年から巨人の監督をやる堀内恒夫を例にとって、ちょっとみてみたい。

 開幕13連勝の新人記録をつくってから3年目の昭和43(1968)年の堀内は、若きエースになっていた。しかし川上にはおもしろくないところがあった。サンケイアトムズ戦。巨人が9対0で一方的に勝っていた5回の裏である。先発堀内が1死をとった後、ヒットと二つの四球で満塁にすると、不機嫌そうに主審に「交代!」を告げた。9点差、あとアウト二つ。堀内にすれば、あと一人でゲッツーだ、と思っているのに勝利投手の権利を奪われたのだ。さらにその2カ月後くらいの広島戦で、こんどはあと1アウトで勝利投手というところで交代命令。

 川上にすれば、「試合が有利に進んでいるといっても、安易に四球を出してアリの一穴をつくってはいかん」という、いわゆる石橋を叩いても渡らない堅いリレー策だったが、堀内には「意地悪い教育」としか受け取れなかった。

 堀内は、こういう“非情”な川上に反抗する気概でV9のマウンドを守り通した。これが川上のやり方だった。二人は最後までうち解けることがなかった。

 監督にはさまざまな采配や人の使い方があるが、「義理と人情」の鶴岡のやり方は真正直で愚直だった。その点、星野は、自分と相手の「感情と勘定」を操る策士だったといっていいかもしれない。これが時代の流れというものなのだろうか。

 
 
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