成果主義で変貌した日本人の深層心理
「成果が認められた分を賞与として支給します」と言われたら、
人の働く意欲はどう変化するのだろうか。
それは企業の人的資源や競争力にどんな影響を与えるのだろうか。
「庇護社会」の中で
営々と生きてきた日本の企業人
今日、日本の雇用は大きな変革期に来ている。1993年に富士通が、主に管理職に対して成果主義を導入してから、ホンダ、武田薬品など成果主義や業績給を導入する企業が増えている。いくつかの調査研究によるとほとんど90%以上の企業で、導入が行われつつあるという。
それらの成果主義や業績給の効果についての検証は現在進行中で、2001年から社会経済生産性本部で行われてきた「日本型成果主義」に関する研究の報告書でも、成果主義そのものの導入が
(イ)短期的な成果だけを追い本質的な生産性の向上を見失う
(ロ)職場の連帯感が失われる
(ハ)部下や後輩の育成が軽視される
(ニ)失敗を恐れ高い目標に挑戦しなくなる
(ホ)個人の努力やプロセスが評価されず不満が高まる
などの問題点を持っていると指摘されている。そのため、日本型の成果主義は、能力主義に接ぎ穂する形で導入されることが望ましいと述べている。
この変革は、いわゆる雇用の流動化と同時に起こっていると言えるものではなく、むしろ、変革によって流動化を余儀なくされているという言い方が正しい。今日、成果主義、あるいは業績給の導入によって私たちの心はどのような状態にあるか、この点を少し考えてみよう。
これまでの日本、つまり90年代までの日本企業は私が「庇護社会」と呼んできた特徴を多かれ少なかれ備えてきた。つまりそこには
・「お上」の前では皆が平等である
・「すべきこと」をすれば「お上」が自分を庇護してくれる
・企業=国家社会はいつも安心できる場所である
という特徴、すなわち国は企業に、企業は父親に、父親は母親に、母親は子供に対する庇護を提供するという「どこを切っても金太郎」のような入れ子構造を持っていた(拙著『父親崩壊』)。労働者は長い間、ひとつの会社=家族に属する。終身雇用は、福利厚生をはじめ社会保障の基盤を企業の中に置くシステムであり、安心感をベースにした雇用慣行が中心であった。
突出した報酬に対して嫉妬心が強まる理由
もちろんこの制度は熟練労働者の離職を拒み、長い間にわたって行われた教育訓練の結果を確保するというメリットを保ち、転職することが損失になるようなシステムである。
そのため勤続年数に比例した賃金と退職金を用意し、若いときには安月給で働き、長い間そこで働き続ければ、それがいつか報われる。長い目で見れば、そして同じ会社に属している限り、みなが平等に再分配される。入社以後、社員には安心第一、右肩上がりの人生が待っていたのである。
この手の安心主義は良いことばかりではなく、心理的に強い拘束感を伴う。それぞれの構成員が結果の平等感を前提にしているために、大きな成功や突出した報酬、(宝くじ当選者はできるだけ隠されるように)それらに対する嫉妬心は非常に強く、
・出る釘は打たれる、そのため集団主義がもっとも適応的な姿となる
・郷に入れば郷に従え、というムラ的原則を守る
こうした嫉妬や集団主義、つまりムラ的集団主義が行動原理であるために、能力や業績と無関係に多く取った人が多く支払う税制も当然視されてきたし、そもそも即時的な対応や実利的な行動は出る釘の一部と見なされやすく、ムラ社会とは無関係な国際政治や経済に対して保守性というよりも無関心を維持してきた。これまでの日本ではその集団への入学試験と就職試験という二つの関門が人生最大の難所であり、入ってしまえば、あとは安心できる生活が保障されてきたのだ。
怖いのは入り口と村八分だけ。ちなみに安心感、安全への無関心には歴史的な根拠もある。この国は戦国時代などの内乱期以外、単一民族、しかも島国という長い歴史的な背景があって、例外を除けば、ここ100年ほど安全は当然の前提として維持されてきたのである。
若者時代に企業に労働力を先行投資し、年配になってから、また退職時にそれを受け取る。雇用環境は年金制度と同じシステムで、しかもこのシステムを維持してきたのは右肩上がり3%以上の、つねに豊かになり続ける社会であった点も、年金のそれと同じ制度なのである。
だがご存知のように、社会保障の大きな土台、安心感の柱の一つであった年金制度は金属疲労を起こしている。
同じことは、長年続いてきた雇用慣行にも言えるのである。上記のように安心感第一の社会のベネフィットは、少子化の力も手伝ってその基盤となる未来の保障から崩れてきて、失われた過去になりつつある。
もちろんムラ的集団主義のデメリットは雇用の流動化によって失われていくだろう。だが現在、不況の中で現実に起きていることは、「雇用の流動化」でも「能力社会」でもない。確かに能力主義は、今日の日本に定着したひとつの発想になっている。
この点で労働の意識が変わり始めたのは80年代、いわゆるバブルの頃。その頃を境に能力開発主義とでも言えるものが登場する。今日でも自己啓発という言葉の残渣は巷で見受けられるが、ここでいう啓発あるいは能力開発は「心の時代」というキャッチフレーズと同様に、経済的な余裕をブランドに向けていたものである。
事情は心理的な自己実現や心理的な癒しにお金をかけていたことと同様の流れ、つまりはゆとりの産物であった。ワードローブに服を増やしていくように、自分のできるアイテムを増やしていく流れ、資格を取っておこうという発想であった。
少ないコマを奪い合う過当競争が始まった
だから心理的には能力主義とは、社会は安全・安心だが、それだけでは退屈だから、余剰分を投資するために資格を取って、それを職業で生かす、これが企業内研修などの延長上に行われていたものである。この意識が前提にあれば、雇用の流動化とは実力主義であり、能力に見合った給与が与えられる可能性が大きくなったのだと思っている人は多いだろう。一面は楽観的に見れば正しい。だが現状を誤解している。
というのも、実際に転職率が上がっているわけではないからである。だから不況期に入ってから、現実に起きていることは、無意識的ではあるが、コスト削減でしかない。
実際のところ、これまでの雇用慣行という長期的な投資行動は、労働時間や賃金で調整するにはリスクが高すぎる、だからデフレ経済の中で減量化を余儀なくされている。多くの労働者が誤解していることだが、今起きている過当競争は雇用の流動化や能力主義ではなく、文字通り席取りゲームのいすが減っている結果なのである。
実際、リストラや中途退職者募集が進んでいるために離職率は高くなっているが、それは転職率には結びついていない。正規の職員でない非常勤の、バイトの社員を多く雇い、それでまかなうという企業が増えている。大企業は雇用数を増やしていないし、労働組合などの組織的労働者はすっかり影を潜め、今ではフリーターたちが会社の各所で短期的に人材を補填する助けとなっている。
つまり企業側が長い間にわたって教育訓練という人的投資を行う体力がなくなってきたのだ。その中で能力・業績による再配分は、少ないコマを奪い合う過当競争を生み出して、これは不夜城の職場をつくり出している。
少ないコマを競争する場合、仕方がないことだが勝ち組と負け組みが出来る。そこには結果の平等も再分配もない。そもそも能力には差があって当然であり、機会が平等であっても、結果には大きな差が出来る。
不夜城で昼夜の区別なく生き抜き、適所でのコンピテンシーを発見して裕福になっていく勝ち組、そこから脱落・離脱して、とりあえず庶民的な生活をぎりぎりで維持できる負け組が出来、その構図は貧富の差のはっきりしているアメリカのエクゼクティブと一般労働者の差に近い。
前者は限りなく積極的で、自信に満ちて楽観的な人々であり、後者は限りなく庶民的で仕事での成功をあきらめている。日本で今起きていることは、能力主義という名前の過当競争であり、運がよければ少ないコマの勝者になれる。
格差は歴然としている。まず正規社員とパートの間で、そして正規社員の中でも勝ち組と負け組の間で大きな差が現れつつある。いずれにしても過当競争の中で勝ち組に入るためにはリスク志向の人生を選択するしかない。そうでなければあくせく働かず、最低限の保障でスローな生き方を選ぶことである。
給与を報酬だと見なす発想は一面で正しい。こと職場の心理学について言えば、これまでアメリカのマーケティング論に追従してきた。MBAの基本的な方針がそうであるように、行動科学の基本的な発想ばかりが導入されてきた。ハトやネズミの行動を条件づけるために、エサを与えるのが行動の強化の原理であり、行動科学の基本的モデルであった。だが生活というレベルまで押し広げれば、どのような行動も不安と期待(欲望)の入り交じったものだ。これまで日本での給与報酬は、安心感が最大の利点であったが、今それは失われている。
欲望のためにリスクを承知で過当競争に身を投じるか、それとも安全のために最低限の(負け組といわれても清貧の)生活をよしとするか、リスク志向と安全志向の二つの意思決定は、人生観を決定する人それぞれの心のリスクマネジメントになりつつある。
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