人生の食卓を無駄にしたくないと願う男の食の軌跡 第121回

 
 

×月××日

「アピシウス」は料理はもちろん、誇りを持って働いているスタッフ、ワインの値づけ……すべてが素晴しい料理店だ。

 数年ぶりにフレンチの老舗「アピシウス」へ行く。アピシウスと言えば、この時期はきのことジビエ。安定感のある味と、一流でありながらさり気ない温もりのあるサービス。やっぱり素晴らしい料理店であることをしみじみと実感した。銀座の「ロオジエ」が改装休業している今、ここが東京を代表するグランメゾンであることは間違いないと思う。
 僕が好きな点は、ソムリエを含めフロアースタッフの平均年齢が異常に高いこと。自分の店に誇りを持ち、自分の店を愛している。だから長く勤めている。働く人たちのそうした揺るぎ無き想いが店のあちこちに染み付いている。厨房の洗い場にいる女性は、創業以来28年間もお皿を洗い続けているらしい。彼女がピカピカにした皿がテーブルに運ばれてくると思うだけでワクワクする。
 本物のマルク・シャガールやアンドリュー・ワイエスが店内を華やかに飾り、80年代のボルドーが充実しているワインリストは、以前よりも高くなったとはいえ、あいかわらず良心的な値づけになっている。もう二十年近く通っているが、実は店のオーナーに一度もお会いしたことはない。店の設えや料理から、相当にセンスのいい食通であると推察する。少し前に、新しい肉料理の店を出されたと聞いた。贅沢なデザートをいただきながら、早くもそっちの店に気が向いていた。

×月××日

たまたま見つけた「とんかつ大将」のオロシとんかつは、意外な旨さ!“ふくあじ”を感じて入ったのは大正解であった。

 ひと月に二度の割合で関西に出張している。その際に何を食べるかは、非常に重要な問題だ。特に時間が限られている状況でのランチはおざなりになりがちだが、それでは一食入魂の精神に反してしまう。ギリギリまで自分の足で動き回り、店構えで判断して勝負をかける。その日にピンと来たのは一軒のとんかつ屋だった。その名を「とんかつ大将」という。居酒屋風の暖簾をくぐると、二人の女性がカウンターの中でランチの準備をしていた。おぉ、“ふくあじ”の匂いがする。
 メニューに目を通す。ロースとんかつ、ヘレとんかつといった王道を筆頭に、オロシとんかつ、和風とんかつ、キムチとんかつといった変り種が並んでいる。聞けば、通常のとんかつにかけるのはデミグラスソースとのこと。居酒屋風の緩さがあるものの、どうやら料理には独自の哲学があるらしい。「どれがオススメですか?」と尋ねたら、店のお母さんに「全部オススメだけど、今日はまずオロシにしたら」と言われたので、その通りにしてみた。
 そして出てきたとんかつは想定外だった。オロシとんかつと名乗るからにはてっきり大根おろしかと思っていたら、もみじおろしだった。しかもポン酢の中には生卵が入っている。この不思議なタレにとんかつをつけて、さらに海苔を巻いて食べるのがここの流儀らしい。少し疑いながら、言われた通りにやってみる。……なるほど、これはウマイじゃないですか。名前の由来になっているもみじおろしは脇役でしかないのに、確かに主役を脅かす味のアクセントになっている。しかもこの店、どこそこのブランド豚肉と謳っているわけではない。無名の豚肉でも十分通用している。甲子園初出場の高校が優勝候補の強豪相手に粘り勝ち……そんなウマさ。何を言っているのか自分でもよく分からないが、とにかく癖になる味である。
 ちなみに同伴したスタッフが頼んだのは和風とんかつだったが、それもスープにつけて食べるという一風変わったものだった。こうなると気になるのは、キムチとんかつである。次回の大阪出張が俄然楽しみになった。

×月××日

大阪の名店「カハラ」は、器は趣味の良さを感じ、料理はベースの味がしっかり旨いだけでなく、遊び心にあふれていて実に楽しかった。料理マスターズである森シェフに脱帽した夜であった。

 神戸のY氏と関東vs関西で食の対決をしている。自分の気に入っている地元の店に案内し、相手に「参った!」と言わせれば勝ちである。これまで僕は東京の「幻燈士なかだ」で一勝、Y氏は神戸の「カ・セント」で一勝。つまり一対一の状況で次にY氏が出してきた切り札が大阪の「カハラ」だった。超有名店だが、予約が取りにくいため行ったことはなかった。期待に胸膨らませて、重たい扉を開ける。
 カウンターのみの理想的な設えだ。最初にハッとさせられたのが、器の趣味の良さ。オーナーシェフの森義文さんは、自ら漆まで塗ってしまう通人であった。もちろん出てくる料理も噂にたがわず素晴らしい。食材にこだわり、調理法には遊び心を忘れない。珈琲風味のカレーパンで油断させたかと思えば、見事なニンニクチップを添えた薄切り牛のミルフィーユ風ステーキという剛速球が飛んでくる。珍しい、けれども、どれもきちんとウマイのである。そう言えば森さんは、去年からスタートした農水省の料理マスターズという顕彰制度の栄えある初代受賞者の一人である。まさに食の無形文化財であることを確信した夜となった。
 これでY氏が二勝。一歩リードされてしまったので、次はどうやって反撃するか、新しい作戦を練っている最中である。

×月××日

「アピシウス」のオーナーが出したイタリアン「キッチャーノ」は熟成牛肉が特筆もの。メニュー構成やスタイルもいい!

 アピシウスのオーナーが新しく開いた「キッチャーノ」に行く。勝手に推測するに、オーナーはトスカーナにあるような肉系のイタリアンレストランを目指したのではないだろうか? 決まったメニューはなく、日替わりの前菜と日替わりのパスタの中からそれぞれ好きなものを選び、メインディッシュの肉をどれにするかで値段が変わるという珍しいスタイル。この構成が抜群にイイ!料理人が作った、というよりも、一流の食べ手が考案した……このスタイルはそんな匂いがする。パスタはイタリア産ポルチーニのタリアテッレとアルバ産白トリュフのリゾットをハーフ&ハーフで注文。肉は豚とソーセージと牛のイチボの盛り合わせにしてみた。特筆すべきは、やはり牛肉の熟成ぶりである。ドライエイジング34日目という北海道池田町の赤牛は、真っ黒になっていた。
 アピシウス同様、こちらのよりカジュアルなワインもなかなか良心的な値づけゆえに、気兼ねなくおかわりができる。フィレンツェの人気店で食事をしているような錯覚に陥る楽しい時間であった。Y氏への切り札の一つとしてリストに加えておこうと思う。

 
 

「アピシウス」
東京都千代田区有楽町1-9-4 蚕糸会館ビル地下1階
TEL 03-3214-1361

「とんかつ大将」
大阪府大阪市中央区農人橋2-1-22
TEL 06-6943-0254

「カハラ」
大阪府大阪市北区曽根崎新地1-9-2 岸本ビル2階
TEL 06-6345-6778

「キッチャーノ」
東京都港区赤坂3-13-13 赤坂中村ビル地下1階
TEL 03-3568-1129

 
 

 

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