人生の食卓を無駄にしたくないと願う男の食の軌跡 第120回
×月××日
山形県酒田市に新設される高校の校歌を作詞することになり、現地まで視察に出かける。「おくりびと」の脚本を書いた時もそうだったが、庄内関連の仕事をついつい引き受けてしまうのは、“あの店に行ける機会が増える”という下心が働くからに違いない。そう「アル・ケッチァーノ」である。銀座にも支店があるが、僕はやっぱり田んぼの片隅に佇む本店のあの雰囲気が好きだ。塩とオリーブオイルで素材本来の味を云々という理論はさておき、そこで食べることが楽しいのである。そこで過ごす時間が心地良いのである。
「アル・ケッチァーノ」の料理は体にやさしく、心地よい。上はベーコンをソースにした“キャベツの丸焼き”、下は“庄内豚と藤沢カブのロースト”。
その一番の理由は、奥田さん自身とそこで働くスタッフたちの人柄によると思う。とにかくみんなが楽しそうに仕事をしている。スタッフがワクワクしながら料理を運んでくるので、こちらもワクワクしながらお皿に向かうことができる。
スタッフの働く姿が見たいので、いつも決まって厨房に近い席を予約することにしている。その席だと黒板に書かれたメニューが近くて読みやすいという利点もある。とりあえずキンキンに冷えたプロセッコを飲みながら、チョークの文字とにらめっこ。いちじくのフリットもいいけど、他のフリットも捨てがたい。庄内豚を食べるなら、パスタにするか、メインにするか……(結局はいつも同じようなものを頼んでしまうのだが)あれこれ悩んでいる時間が幸せなのだ。
食事の最初と最後に必ずいただくのが、裏メニューのスーパー小松菜の青汁。グリーンスムージー愛飲者となった今ではマストメニューであるが、この日は残念ながらいい小松菜が入らなかったらしく、飲めなかった。
最初に青汁を飲めなかった分、前菜では野菜系のものを色々と選ぶ。ベーコンをソース代わりにしたキャベツの丸焼きは自分にとっての定番メニュー。白ワインのつまみとして最高の一皿だ。赤ワインに変えてからは、ロゼ色に焼き上げた庄内豚と藤沢カブのロースト。カブの苦みが豚の甘味を引き立てる。パスタは「かわはぎとキャベツのペペロンチーノ」にしてみた。
「アル・ケッチャーノ」でパティシエールとして働いていた斎藤紀子さん。この笑顔があるからこの店は美味しいのだ。
この日は偶然にも、これまで働いてきたパティシエールの最終日だった。彼女の作ったドルチェをいただいたあと、働き納めの表情を撮らせてもらった。そのすがすがしい笑顔が、職場環境の素敵さを物語っていた。こういう人が心をこめて作っているから、きっとこの店はうまいのだ。
ところで通常、イタリアンレストランでは前菜、パスタ、メインの順番で出されるが、僕はそれが苦手なので最後にパスタを頼むことにしている。炭水化物でしめるほうが、絶対に日本人の食性にあっていると思うのだが。いつか機会が訪れたら、「パスタワサイゴニ委員会」を立ち上げようと密かに画策している。
×月××日
「アル・ケッチァーノ」で満腹になった翌朝、おなかがすいて目が覚める。そこがあの店のいいところである。結局、料理の善し悪しは翌朝に決まる気がする。だからいい食事を食べたその夜は、朝食のうまい宿に泊まらなくてはいけない。
僕の庄内での定宿は、湯田川温泉の「湯どの庵」である。とにかく使い勝手とセンスがよく、しかも決して高くない。一泊朝食付きで一人一万円前後とは思えないクオリティである。当然ながら、温泉がまた素晴らしい。檜風呂と石風呂の二種類があり、石風呂のほうには小さな露天風呂も付いている。湯量が豊富なせいか、とにかく清潔で風呂場そのものに凛とした佇まいがある。シャワーの勢いがいい、冷たい水がきちんと出る、という点も僕は高く評価したい。
うまいものを食い、素晴らしい湯につかり、安らぎの布団で眠る。そして翌朝、うまい朝食が待っている。あぁ、何て幸せな人生だろう。
庄内にある旅館「湯どの庵」の朝食。シンプルではあるが、安らぐようなおいしさがある。
湯どの庵の朝食に、高級旅館のそれを求めると期待はずれに終わるだろう。そこに伊勢海老の味噌汁や、自分でニガリを入れて作るおぼろ豆腐などはない。庄内麩の味噌汁と紅鮭の切り身、丁寧に巻かれた卵焼き。優しい味付けのがんもどきと海苔の佃煮ととろろ。サラダには一応ハムが添えられているが高いものではない。そして、キラキラ輝いている白米。まるで、お母さんがお手本としたくなるような朝ごはんなのだ。
しかし、この家庭的な朝ごはんが実にうまい。欲しいものを足していくのではなく、必要なものだけを残して組み合わせた「ひき算の美食」。思えばこの哲学は、昨晩の夕食にも共通していた気がする。今、世の中はこういうものを求めているに違いない。
×月××日
素朴なイタリアンを庄内で堪能した翌週、最先端のイタリアンを銀座で味わう。その舞台は、ブルガリの「イル・リストランテ」。総料理長のルカ・ファンティンさんは、スペインの「ムガリッツ」や東京の「龍吟」で研鑽を積み、ローマの三つ星「ラ・ペルゴラ」で副料理長をつとめていた若き天才料理人。メニューには料理名を記載せず、使用する食材しか書いていない。「カニ、アヴォカド、レタス」「ミラネーゼ、ニンニク、金目鯛」「鰆、玉葱、チキンのジュ」…… 何ともそっけないメニューである。
(上)「イル・リストランテ」の“ナスとリコッタチーズのラビオリ”。完成度の高い料理だ。(下)「イル・リストランテ」の“ポテトのロースト”は食材使いの妙が感じられた。
そしていざ、食事がスタートしたのだが、まずブルガリ様に謝りたい。なめていてごめんなさい、と。どうしてもファッションイメージが強い故に、油断していた。ところが、料理としての完成度が抜群に高いのだ。様々なテクニックが駆使されているものの、その技におぼれていない。どれもきちんと美味しいのである。
特に驚いたのは、ナスとリコッタチーズのラビオリ。通常、ラビオリに包まれているはずのナスとリコッタチーズが外に出ていて、逆にトマトソースがラビオリの中に入っている。ラビオリを口に入れると、絶品のトマトソースが口の中にジュワッと広がる。つまりこれは、イタリアン小籠包なのだ。ガーリック風味のパン粉をまぶした金目鯛のミラネーゼも癖になるうまさ。サマートリュフを贅沢に使ったポテトのローストには、濃厚でクリーミーなフリットが添えられている。この食材は何だろう? と思ったら、仔豚の脳みそだった。
「ひき算の美味」を悟った翌週に出会ったブルガリの料理。しかし、これは決して単純な足し算の料理ではない。食材と食材を足してかけ算をした後、それを絶妙に割り算して、最後に必要なものだけを引いた……やっぱり「ひき算の美味」なのだ、と自分に言い聞かせた。

「アル・ケッチァーノ」
山形県鶴岡市下山添一里塚83
TEL 0235-78-7230
「イル・リストランテ」
東京都中央区銀座2-7-12
TEL 03-6362-0555
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