刺し身は「煎り酒」で食べるのが江戸の定番
刺し身で食べたい魚がよくなってきた。黒潮にのって南から昇ってくるカツオ。東京湾ではマコガレイ漁が始まり、おすし屋さんのなかには定番の白身をヒラメからマコガレイへ、とする店も少なくない。マダイは、乗っ込みといって産卵を迎えて怒濤のごとく内海へ入ってくる時期。淡路などの瀬戸内モノ、愛知県の豊浜、神奈川県佐島、江戸前モノの勝山や竹岡、外房大原等々、すばらしいマダイが続々と入荷してくる。外房の荒波にもまれたイシダイのシコッとした食感、常磐のアイナメの余韻にほのかな甘味を感じさせる味わいもいいし……。
寒さにちぢこまって鍋だ、鍋だと騒いでいたぶん、陽気がゆるんでくると、むらむらとただもうひたすら食べたいのが刺し身である。
そんなわけで、煎り酒などつくってみようかな、と。冬には中断してたけど。
煎り酒というのは、醤油が普及していなかった時代、刺し身に添えた手づくり調味料。日本料理の基礎が築かれた室町時代からのもの、という。現代の料理書からは姿を消したが、江戸時代のそれにはしばしばつくり方が出てくる。基本の材料は酒と梅干し、だしとしてかつぶしや昆布。ときに醤油を加えることも。
たとえば江戸初期に出版された人気の料理書『料理物語』によると……。
かつおぶし1升、梅干し15~20、古酒2升、水とたまり少々。以上を1升にまで煎じ、冷ましてこす、とある。
2升酒をざっと1升弱になるまで、炭火でソロリソロリと煮詰めてたんでしょうね。もったいない、この罰当たり、と、どこぞから声が飛んできそうですが。
和田はつ子さん著の時代小説『料理人季蔵捕物控』シリーズは、かつて侍、今は料理人となった季蔵が、毎回、美味なる料理を披露するが、調味料の基本は煎り酒としている。刺し身だけでなく、卵豆腐にも、筍とわかめの煮物にも醤油のかわりに煎り酒。煎り酒こそ素材の味を最高に引き出す調味料、とする店の親方長次郎の教えを守ってのことである。
そんな季蔵だが、おもしろいことに、初がつおの刺し身は芥子味噌、客によっては蓼酢(たでず)、芥子酢ですすめている。
そういえば、冬に高知を訪ねたおりにいただいた紅白の刺し身盛り合わせには、醤油と酢味噌が添えてあった。酢味噌には、にんにくの若葉がすり混ぜてあり、それはきれいな緑の色。当地では、酢味噌をぬたと呼び、ブリの刺し身などはぬたで食べるのが伝統なんだとか。関東風の味になれてしまった私には、ちょっと甘めだが、なかなかの相性だった。
江戸の料理書にも見られることだが、醤油万能となる以前は、刺し身のたれもいろいろ工夫があったのである。とはいえ、定番は煎り酒。酒と煮詰めてまろやかになった梅干しの酸味が、ことに白身魚をめっぽうおいしくさせるのだ。
深夜の煎り酒づくり。3合ほどの酒を用意する。あの料理人季蔵さんのように料理に使うわけでなし、刺し身専用だからこれで十分。小鍋に入れ、昔風の塩っぱい梅干しの種を取って5個ほど加える。ごくごく弱火で、半分ほどに煮詰め、最後にかつぶしを加えて一煮立ちさせ、塩加減すればできあがり。酒3合を平常心をもって煮詰めていけるのは、酒量がめっきり減ったせい。コップ酒に目を細め、クイクイやっていたのは遠い昔のことで、今や下戸へとまっしぐら。ちょっと、いや、かなり寂しい気もするが、それを補って余りある煎り酒である。

- 春は曙、魚はマダイ。各地から脂がのった見事なやつが続々入ってくる楽しみな時季。










