小山薫堂の一食入魂 [113]
路地裏にある天麩羅屋には肝っ玉母さんのような
でも繊細な技を持つ名職人がいたのであった
人生の食卓を無駄にしたくないと願う男の食の軌跡

男は、大阪で 東京人もびびる天麩羅屋 に案内され、
海老トーストやコニャックをたっぷりふりかける
サツマイモの天ぷらに参ったのであった。
大阪出張の際、地元の食に詳しいS氏に「何かうまいものをおごってください」とメールしたところ、「まかせてくれ!」という嬉しい返信が届いた。しかもそこには思わせぶりなことが書いてある。「8席しかない寿司屋、ワインの充実している串揚げ屋、法善寺にある河豚屋、東京人もびびる天麩羅屋……どれにしますか?」
さんざん迷った末、「東京人もびびる天麩羅屋でお願いします」とメールを送った。
そして連れて行かれたのは、なんばの雑居ビルの路地裏。鍵のかかっていない鉄柵を開け、怪しげな通路を奥へ進んだところにその店はあった。名前を「志津芳」という。
年季の入った暖簾をくぐって店に入る。その刹那、最初のサプライズを食らった。店の主人が女性なのである。しかも齢は、おそらく70を越えている。にもかかわらず、誰の手も借りることなくたった一人で店を切り盛りしているのだ。「志津芳」という店名は、伊東志津という彼女の名前に由来していた。
カウンター席のみの居心地のいい清潔な空間。肝っ玉母さんのような佇まいでありながら、志津さんからは職人特有のオーラが出ている。ここは間違いなくうまいと直感した。
まずは瓶ビールでS氏と乾杯。S氏が志津さんにも一杯薦めると、志津さんは待っていましたとばかりにグラスを差し出し、なみなみ注いでもらうや否や、瞬時に飲み干した。ものすごい飲みっぷりである。
しかし志津さんの仕事は、その豪快さとは対極であった。衣の薄い、繊細で上品な天麩羅。でありながら、ちゃんと力強くもある。
東京の天麩羅屋と大きく違うのは、天つゆがないこと。その代わりに、秘伝の柚子を混ぜた大根おろしでいただくのだ。絶妙のタイミングで海老をはさみながら、志津さんの名人芸は続いていく。中には、東京の天麩羅屋ではあまり見かけることのない変わった種もある。
例えば、海老トースト。海老のすり身をはさんだ食パンを、トースト色になるまでしっかり揚げたその味は、実に若々しい。あらかじめ味付けしたコンニャクの天麩羅もなかなかの傑作である。そして、確かに東京の名店もびびるであろう逸品は、五寸はあろうかという分厚い丸十(さつま芋の天麩羅)。揚げたてのそれにコニャックをたっぷり振りかけ、口をいっぱいに広げて豪快にかじる。あまりのうまさに悶絶し、志津さんにビールを一杯差し上げると、またしても一瞬のうちにグラスは空になった。
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| ふくよかな笑顔で天ぷらを揚げる「志津芳」の伊東志津さん。今回の題字も書いていただいた。巨大な丸十(さつま芋)は揚げたてにコニャックをたっぷりふりかけてかぶりつく。〆の海苔茶漬けもまたうまい! |
「いやぁ、想像を遥かに超えてうまかった。今回は降参です。参りました」とS氏に頭を下げると、彼は得意げな顔で「うんうん」と頷いた。
しかし、である。何とこの名店は、10月いっぱいで閉店してしまうという。志津さんの年齢を考えれば引退は当然かもしれないが、それにしても、この技を受け継ぐ職人がいないのが惜しい。
志津さんの天麩羅が伝説になってしまう前に、もう一度大阪まで足を運ぼうと思っている。
×月××日
仕事でロサンゼルスに出張する。ロサンゼルスと言えば……ランディである。サプライズをするため、彼の名前をつけたカフェを赤坂にオープンさせてから早5カ月。今度はランディからの嬉しいサプライズ返しが待っていた。
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| 嬉しいサプライズ返しを用意してくれたランディ(左)と、そのためにフロリダから駆けつけてくれたシェフのクラウディオ。 |
ビバリーヒルズにある彼の大豪邸に行くと、そこはすっかりメキシカンレストランに様変わり。わざわざフロリダから自分が最も好きなシェフを呼び、料理をつくらせていたのだ。シェフのクラウディオはこの日のために数日前からロサンゼルスに入り、何十時間もかけて準備をしていたという。
ビーフ、ラム、チキン……とあらゆる肉が食べきれないほど並んでいる。クラウディオの豪快なパフォーマンスを見ながら、本格的なメキシコ料理を初めて体験したのだった。
やっぱり持つべきものは、食通の友、である。
×月××日
久しぶりに「毎月通ってみたい」と思う店に出会った。南青山の「イル テアトリーノ ダ サローネ」というイタリアンレストランである。
以前、横浜で「サローネ2007」というイタリアンに何も知らずに入り、その完璧な料理構成に仰天したことがあった。そのサローネが東京に進出すると聞き、楽しみにしていたのだが、これほど素晴らしいとは思わなかった。
まず、質の高い料理と値段のバランスが見事。前菜が4皿とパスタ2皿、そしてメインディッシュにドルチェ、コーヒーまで付いて8500円。どれ一つとして手抜きのない料理をこれだけ出して、この値段は本当に安いと思う。
まだ34歳という若き総料理長の樋口敬洋さんは、シチリアの海沿いのレストランで1年、山の中のレストランで2年働き、海の味と山の味を習得したという。繊細なフレンチにも迫る手の込んだイタリアン……と書けば、気取った上品な味を想像するかもしれないが、実際に味わってみればそれが田舎料理のうまさに通じることに気づくだろう。
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| 蛸のラグーのパスタと仔羊のストゥファート。上品で繊細な味わいの中に、普遍的なうまさもある。どの料理からも樋口シェフのセンスが感じられる。 |
蛸を一匹丸々煮込んで仕上げた「蛸のラグーソースのカバテッリ(パスタ)」は、今年の記憶に残る一皿である。聞けば、魚介は毎朝、神奈川県の佐島まで足を運び買い付けているという。
面白いのはメインディッシュ。これだけは毎月、「仔羊のストゥファート」と決まっている。ストゥファートとは煮込み料理のことで、つまり仔羊の煮込みがシェフのスペシャリテ。ただし食材は同じでも、味付けが毎月異なるらしい。今月のものは、甘みと苦味が絶妙な綱引きをしていて、その美味に思わず唸ってしまった。
それからここで忘れてならないのは、ビオワイン。最高の飲み頃にするため、30日前に抜栓していたりするので、ここではソムリエの言うがままに、グラスで注文するほうが絶対にいいと思う。
すでに東京で最も予約のとれない店になりつつあるが、苦労をしてでも行ってみる価値のある一軒である。













