小山薫堂の一食入魂 [107]

そのすき焼きは一人前がハッキリしていて
不公平が生じない素晴らしいシステムであった

 
 

人生の食卓を無駄にしたくないと願う男の食の軌跡



男は、焼肉の格闘家に挑まれた勝負に向かい、
しゃぶしゃぶのようなすき焼きにノックアウトされた。
そしてフレンチの巨匠の味を受け継ぐ“水の料理人”の
黒トリュフづくしコースにも参ったのであった。

 
 

文・撮影 小山薫堂

題字・山口 浩

 
 

 

×月××日

 久しぶりに、恵比寿の焼肉店「虎の穴」へ行く。店主の辛(しん)さんが何かとうるさいので、ここに行くにはそれなりの覚悟が必要だ。まず予約を入れた時点で、「当日は必ず腹を空かせて来い」とリクエストされる。これは料理店に赴くときの客側の最低限のマナーではあるが、辛さんの場合、「あえて新宿駅で降りて、恵比寿まで歩いて来い」などと無茶なことを言う。しかも「勝負しよう!」が口癖。肉を焼く店主と、それを単に食べるだけの客の間にどんな勝負が成立するのか、意味不明の部分もあるが、とにかくボクサー上がりの辛さんは何かにつけ勝負をしたがる。つまりは、「うまかった! 参りました」と客に言わせたいのである。
 しかもこの日は、辛さんから意外な言葉が飛び出した。
「今夜は、すき焼きで勝負だ!」
 焼肉屋ですき焼き? 当然、「虎の穴」にすき焼きというメニューはない。どうやら、いい野菜が入ったときだけにこっそり出している裏メニューらしい。すき焼き勝負……受けて立とうではないか。

辛さんは客に真剣勝負を挑んでくる。今回の“すき焼き一本勝負”は、完全にノックアウトされたのであった。

 辛さんは、焼肉のときに使う炭火の網の上に、ずっしりと重たい鉄製のすき焼きなべを乗せた。備長炭の絶妙な火加減を見て、「最初にタン塩でも焼かせて」と頼んだものの、辛さんは「今夜はすき焼きだから、焼きは禁止!」と言い張って聞かない。焼肉屋なのに、肉が焼けないとは何とも歯がゆい事態である。
 鍋が熱くなったところで、牛脂をなじませ、青葱を炒める。そして次にいよいよ肉が登場か……と思いきや、口うるさい店主は何と昆布出汁を鍋にドボドボと注いだ。そこに砂糖を少々加えて準備完了。これがグツグツ煮たったところで、山形牛のロース肉を軽く泳がせる。ほのかなピンク色を残したまま、かき混ぜていない生卵につけ、箸で黄身を潰してソース代わりにしていただくのである。そう、「虎の穴」特製すき焼きは、しゃぶしゃぶの流儀を取り入れたすき焼きだった。肉の旨味を味わいつつ、すき焼きの雰囲気もしっかりと残している。

 しかし、新時代のすき焼きのサプライズはこれで終わりではなかった。野菜をまとめて投入するのではなく、一人前ずつ肉で巻いてあるのだ。日本の鍋という食文化は素晴らしいが、不公平が生じることが最大の欠点であった。早く食べることのできる者が、より多くの美味にありつくことができる。しかし、このすき焼きは違う。ピンチョスのように一人前がハッキリしているので、不公平が生じにくいのだ。一人前の定義がハッキリしているので、安心して自分のペースで食べられるのがいい。

 締めくくりは牛丼である。焼肉屋らしく、よく漬かったキムチが横に添えてある。甘いA5の肩ロースとキムチの辛味が抜群の相性だった。全てを食べ終えると、完全燃焼した店主が「どうだった?」と声をかけてきた。「完敗です」と言うと、辛さんは勝者ならではの誇らしい顔を見せた。
「虎の穴」の新すき焼き、いや、“辛すき焼き”は、店主がマンツーマンで対応する真剣勝負。しかも店主が認めた一日二組だけの限定裏メニューらしい。上から目線の高飛車な焼肉屋ではあるが、トレーニングを積み、挑戦してみる価値は十分にある。

 

×月××日
びっくりするほど甘い“雪割りにんじんジュース”は、体中が喜び、元気になるおいしさ。

 肉を食べ過ぎた翌日、“雪割りにんじんジュース”でリハビリを行う。赤坂アークヒルズで開催されているマルシェ・ジャポンで見つけて以来、すっかりハマってしまった。雪割り人参とは、新潟県魚沼地方の特産品。夏に種を蒔いた人参を秋に収穫せず、そのまま雪の下で春まで寝かせる。雪を割って掘り起こすことから、雪割り人参と呼ばれているのだとか。その人参を搾り、レモン果汁を加えただけなのに、本当に旨い。舌が旨いと感じるだけではなく、体が旨いと叫ぶあの感覚。まとめ買いして、冷蔵庫に常時ストックしている。
 びっくりするほど甘く(糖度は11度)、特有の臭みもゼロ。人参嫌いの人こそ、ぜひ一度、飲んでみて欲しい。こういう飲み物を学校給食で出すために、政府は国家予算を使うべきだと思う。

 

×月××日

 500色の色鉛筆でおなじみの、神戸に本社を置く通販会社「フェリシモ」の矢崎社長から夕食に招待される。
 神戸の街を愛してやまない矢崎社長が選んだのは、神戸北野ホテルのフレンチレストラン「アッシュ」だった。北野ホテルと言えば、故ベルナール・ロワゾー氏から受け継いだ世界一の朝食が有名である。そのロワゾーさんに師事した山口浩さんが、アッシュの総料理長。アッシュ(=H)は、浩のHなのだ。
 ロワゾーさんが亡くなる前、バターや生クリームを極力避けた“水の料理”を味わうため、ブルゴーニュの小さな村にある「ラ・コート・ドール」まで何度か出かけたことがある。思えば、21世紀最初のディナーもロワゾーさんの料理だった。

山口シェフと(右)。今回の題字も書いていただいた。感動の連続だったが、中でも“白子のリゾット”(左)が凄い!

 ロワゾーさんの想いを今に受け継ぐシェフが、果たしてどんな料理をつくるのだろうか? 期待してメニューを開く。
 ……驚いた。黒トリュフづくしで構成された全12皿。第一幕と第二幕に分かれていて、デザートに至るまで、全ての料理に黒トリュフが使われている。食べ始めてからさらに驚いた。一皿ごとに使われるトリュフの量が半端ではないのだ。通常トリュフは、薄くスライスしていただくことが多いが、ここでは様々な切り方で出てくる。香りだけを楽しむのではなく、トリュフそのものの味を堪能できるのである。まさにトリュフが、最良の脇役ではなく、究極の主役を演じている。特に感動したのは、7皿目に出てきたトリュフをちりばめた“白子のリゾット”。とらふぐの薄切りとフライがアクセントになっている。
 素晴らしいのは、全12皿を食べつくしてもなお、体が軽かったこと。山口さんもまた、きっと水の料理人なのだ。ここ数年の中でも記憶に残る特別なディナーであったことは間違いない。
 帰り際、時計を見るとすでに日付が変わっていた。2月24日……それは奇しくも、ロワゾーさんの7回目の命日。その特別なディナーは天国からのプレゼントのように思えた。

 
 
◆2001年6月号の連載開始以来、「一食入魂」に登場した約600軒の中から、薫堂さんが選び抜いた100軒を掲載した『人生食堂100軒』が好評発売中です。「一人で贅沢な日常を味わえる店」「愛する人との距離を縮めてくれる店」「体が“うまい!”と叫ぶ店」「サプライズに満ちた店」「一生通いたい店」など、薫堂さんならではの分類による、読んで面白く、使って役に立つまったく新しいガイドブックです。ぜひお読みください!

 

小山薫堂さんのオフィシャルサイト「N35」はこちら!▼
 http://www.n35.co.jp

 
 

「虎の穴」

   http://toranoana.com

「アッシュ」

   兵庫県神戸市中央区山本通3-3-20 神戸北野ホテル内
   TEL.078-271-4007

 
 
dancyu 2010年5月号
dancyu 2010年5月号
税込価格 860 円
 

クイック・アンケート

 
 

おいしいと評判のパン屋さん

どこまでなら買いに行きますか?

 
 

メールマガジン <dancyu通信>

 
 

「dancyu」編集部員が、取材現場でのこぼれ話やオリジナルコンテンツなどをお送りします。 [主な内容] 編集部員のマイブーム/今月のスローフード/今月の日本酒/dancyu先取り情報……等々を、毎月2回配信します。

メールマガジン申込・登録変更