築地、魚河岸、旬ばなし [58]

今は昔。築地には日本のフランス料理の礎があった

 
 
文/福地享子
イラスト/坂木浩子
 
 

 今年は日仏交流150周年とやら。
 安政5(1858)年、日仏修好通商条約が成立し、フランスとのお付き合いが始まった。そしてフランス料理とも。
 実は築地市場には、日本のフランス料理史にエポックを記した場所がある。
 明治と元号が変わる年、1868年へとタイムスリップしてみよう。場所は、勝鬨橋(かちどきばし)近くの門から場内へ入ってすぐ、魚を積んだトラックが出入りする立体駐車場のあるあたりだ。
「こりゃまたどえれぇ異人屋敷だ」
「なんでも、外人旅籠(はたご)だとよ」
 噂しきりの江戸っ子連中。遠巻きに囲んでいるのは、一部4階建ての豪壮な洋館である。その名も「築地ホテル館」。開国となって、外国人客を受け入れるための日本初の本格的洋風ホテルが、そこには建っていたのだ。
 1階には、大きく窓を開け放ったダイニングがあり、料理を仕切るのは、フランス人ルイ・ベギュー。本場さながらのフランス料理は、アーネスト・サトーらの海外からやってきた要人たちにも好評だったし、お武家さまの屋敷でも、外国人客を招くおりは、このホテルから料理を取り寄せた。そこが唯一のフランス料理を提供できる場だったと言ってしまえばそれまでだが、外国の旅行ガイドでも高く評価されており、ベギューさんは腕のたつ料理人だったようだ。
 といっても当時のフランスで、近代フランス料理の父といわれるオーギュスト・エスコフィエすら頭角をあらわすのは、もっと先のこと。彼らが味わったのは、今のフランス料理とはかなり違う。スパイスもいっぱい使った。メインの材料となるのは、もっぱら野鳥や獣肉だ。それだけに、より濃厚なフランスの香りを放つ場であったことだろう。
 しかしこのホテル、開業してたったの3年半で焼失。再建されることはなく、日本のフランス料理の歴史は、築地精養軒や帝国ホテルなどへと引き継がれていく。
 幻のような存在であった築地ホテル館。しかし、東京のフランス料理の芽生えはここから。フランス料理店とも付き合いの多い築地市場の一角に、そんな歴史が埋まっていることに、なにやら感慨を覚えてしまう。
 ところがである、市場で働く私のもとへ、フランスからの珍客がやってきた。三つ星シェフの築地見学はもはや珍しくないが、そのフランス青年は、パリの寿司屋で働くうちに独立を思い立ち、昆布、海苔などの乾物類やもろもろの道具の調達にきたのだ。
 彼が飛びあがって喜んだのは、卵焼き器の木のふた。プロが寿司玉を作るとき欠かせない道具だ。それから繊細な飾り串にザルにと、パリでは買えない道具の数々。十数席の店のつけ台の前に、寿司職人として立つ日まで残りわずか。買い物には、オープン前特有の慌ただしさがいっぱいだった。
 それにしても、彼が店を開くのは、故郷のブレストという町だ。そんな地方都市で、寿司屋さんが成り立つのだろうか。
 彼は自信たっぷりに答えた。
「ブレストには港があり、魚だっていっぱい揚がるんですよ。米だって、ササニシキに似たものがあるし。醤油も酢も、パリでいくらでも買えるし。だいじょうぶ」
 あのね、心配なのは、パリならわかるけど、寿司を食べるひとがいるかってこと。
「フランス人にとって、寿司はとてもスピリチュアルなものなんです」
 というと、禅とか茶道みたいな感じ?
「そうそう。ブレストは大学都市。寿司の精神がわかる町なんです。それにヘルシーでしょ。寿司大好きなひと、たくさんいます」
 彼は優雅に微笑み返したのだった。
 日仏交流以来、日本人はフランスの味をけんめいに学んできた。そして今、私の前にいるのは、パリで寿司修業をし、自国で寿司屋の親方となる海色の瞳の青年だ。150年という歳月がもたらした思わぬ展開。この日は、私にとってかなりの事件日だった。

 
 

[今月の魚]

成長するにつれ、名前が変わる出世魚の一つがスズキ。濃いグレーの色、精悍な顔つきから、イタリアではおおかみ魚の異名をもつ。今から夏いっぱい、脂がのり、夏の白身魚の代表格である。洗いや刺し身、またイタリアンやフレンチなどではグリルやポワレに。勇壮な神輿で知られる富岡八幡宮の「深川八幡祭」。東京では、8月中旬に行われるこの祭までを、味のピークとしている。


日本初の女子留学生の一人、津田梅子。彼女の父、津田仙は、「築地ホテル館」の理事を務めたこともあり、洋野菜がないことをうけ、東京・三田で天冬目(アスパラガス)や牡丹菜(キャベツ)を栽培する。ホテルは、洋野菜普及にも影響を与えたといえる。
 
 
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