築地、魚河岸、旬ばなし 第55回

桜陽気に浮かれる時期、河岸ではトリ貝も踊り出す

 
 

文/福地享子
イラスト/坂木浩子

 
 

 お雛さまに供えるあられの器に、トリ貝の殻を使っている。殻の表面はどうってことない薄ぼけたベージュ色だが、驚くのは裏返したおりで、淡い紅紫の色が目に飛び込んでくる。菜の花色や桃色が混ざった雛あられをこの殻に盛ると、その紅紫とあいまって、雛の祭りにふさわしい華やぎが生まれる。
 と、まぁ、ひとり、悦に入り、今年もトリ貝でお雛さま用の器を新調してあげた。いや、新調、というのはおこがましいか。
 殻つきのトリ貝は2月ごろから入荷する。私が働く店へも、海水が入った発泡スチロールの箱に入ってやってくる。元気のいいヤツは、黒紫の脚をヒョロリのばして泳いでいたりするが、この脚が寿司ダネとなる。ふつうは殻のまま買われていくが、まれに殻はいらないという方も。シメタッてなもんで、ゴミとなるものを拾ってくるのだ。そうと知れば、お雛さまから文句の一つも出そうだけど。
 トリ貝の主産地は、瀬戸内海、三河湾、伊勢湾、東京湾などで、身の入りがいちだんとよくなるのは桜が咲くころだ。アワビを除くと、ハマグリやミル貝、タイラ貝など、寿司ダネにいい貝がおいしいのは冬から春で、トリ貝はそれにちょっと遅れての旬となる。
 そんなわけで桜陽気に浮かれる時期、築地の寿司屋さんでも、殻からむいたばかりの生のトリ貝がネタとして登場する。酢飯のうえで、ときに蠢うごめき、飯からずり落ちるほどだ。口に含むと磯の香り。貝のうちで、もっとも海の香りを感じさせる味わいだ。シーズン外のトリ貝は、産地でむき身をゆでたもの。生で味わえる時期が限られていることもあって、季節の御馳走に私の頬はゆるむ。
 しかるに、うちの店の大将は、人後に落ちぬ寿司好きなのに、生のトリ貝だけは大嫌い。つけ台に躍るトリ貝など並ぼうものならとたんに不機嫌になる。
「アンタは知らないからだよ。どれだけワタシがトリ貝に金と時間をつぎ込んだか」
 あるとき、あまりの嫌いように理由を聞くと、そんな答えが返ってきた。
 トリ貝が、殻つきで河岸へ入荷するようになったのは昭和の終わり。これはその少し前の話である。
 当時、トリ貝といえば、ゆでて流通するのが普通だった。冷凍保存もでき、暮れなど、それは重宝された。正月の出前が盛んな時代であり、保存のきく値ごろ感のある貝として飛ぶように売れた。春、大量に揚がったときに加工、冷凍しておけば、あとは値をみて売るという投機的な側面を持つ貝だったのだ。
 大将は、そんなトリ貝に無関心ではいられなかった。春、トリ貝がおおどれした東京湾沿いの富津(ふっつ)へと通う日々が続いた。
「うでるのがむずかしいんだよ」と大将。
 トリ貝の命は、あの黒紫の色。ハクと呼ぶそうだが、ハクが落ちると価値がない。そこで、殻をむいて身を引きだすと、ハクが落ちないようにガラス板の上で割く。さらにはゆで加減。艶のよい黒紫の色に仕上げるにはコツがいる。そこらを、富津の貝の業者さんと研究しまくった。なにしろ思い込んだら命がけ、のタイプゆえ、「しまくった」の言葉が当たっている。
 ところが、あぁ無情。そうこうするうち、殻つきトリ貝の入荷が始まったのだ。それも卸会社の若者の手で。「生でも食えるし、うまいじゃん」とばかり、ゆでて流通、という常識を軽々と越えてしまったのだ。
「生という発想がなかったんだねぇ」
 それが悔しい。ニュージーランドからの豪州マダイの輸入で名をあげ、殻ホタテを東京へ広めたパイオニアでもある大将としては、一世一代の不覚であった。
 殻つきでの流通が始まって20年。大将の恨みは未だ風化されていないのだ。もっとも本音をいうと、私も生よりゆでたほうがおいしいように思う。しかし、大将にはお気の毒だが、そこには厳然と、殻からむきたてをゆでて、という一条があってのことだ。


[今月の旬]
 桜と競うように桜と付く魚が河岸を彩る。桜ダイに桜エビ、王様クラスでは桜マス。河川で産卵、海洋で大きくなり、再び、川に戻る。桜の時期に河川を昇り始めるが、遡上前の北海道沿岸などで揚がるものは、ことに脂がのって美味。黒っぽい銀色でおおわれた背は、さしずめ「薄墨桜」。身はあでやかな緋色。身質的にはサケに似る。日ごろは輸入サーモンを扱っている洋食屋さんも、この時期ばかりは桜マスを求める方が増える。
 
 
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