小山薫堂の「一食入魂」 第81回
イチローのお母さんのカレーは、息子の
バッティングスタイルにも似た寸止めの美学が
人生の食卓を無駄にしたくないと願う男の食の軌跡

男は、イチローのお母さんのカレーを食べ、
世界を制したスーパースターが「世界一」と言う、その味を堪能した。
普通の加減が絶妙な、普通の本質を突き詰めた、これぞ究極の“家カレー”だ。
×月××日
広告代理店に勤めるKさんから電話をもらう。
「突然だけど、今夜、カレー食べに行かない?」
すでに今夜は他の人とオークラの鉄板焼きを食べに行く予定が入っている。断ると、Kさんは明らかに用意していた殺し文句を吐いた。
「普通のカレーじゃないんだ。イチロー母のカレーなんだけど」
「誰ですか、イチローって?」
「イチローはイチローだよ。マリナーズの」
意味がよく分からない。この人は何を言っているんだろうと思った。
「イチローは分かりました。母って何ですか?」
「お母さんだよ、イチローの」
ますます分からなくなった。
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| “究極の家カレー”をつくるイチローのお母さん。カレーをつくるために上京されたらしい。 |
「イチローのお母さんがカレーを作ってくれるから、食べに行かない?」
「えぇっ、イチロー母の本物おふくろカレーですか?」
「そういうこと」
イチロー選手がカレー好きであることは有名だ。特にお母さんの作るカレーが世界一うまいと発言している記事をどこかで目にしたことがある。そんなカレー を食べることは、ミシュランの三ツ星レストランの予約を取るよりもずっと難しい。迷うことなくオークラの鉄板焼きをキャンセルして、伝説のおふくろカレー を食べに行くことにした。
舞台はイチロー兄のマンション。Kさんとイチロー兄が知り合いで、夢のカレーディナーが実現したのだった。お母さんはこのカレーを作るために、わざわざ名古屋から上京。丸一日をカレー作りに費やしたらしい。
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| 手作り餃子も出してくれた。焼き面はカリカリ、反対側はモチモチ。中はジュワッと旨い! |
ビールで乾杯し、カレーを待つ。やはりカレーを待つ間はビールに限る。そしてついにカレーが登場……かと思いきや、お母さんはカレーの前座として手作り餃子を出してきた。焼き面は焦げ目をつけてカリッとさせながら、反対側の皮はモチモチ感を残しているという絶妙のバランス。熱々のを一口で頬張ると、口の中にじゅわっと肉汁が溢れた。あぁ、プリプリした食感がたまらない。熱くてヒリヒリしている舌を一旦ビールで癒し、すぐさま二個目に手を伸ばす。予期しなかったビールと餃子という黄金コンビの登場に、最上の幸福を覚える。……が、いや、食の極楽に浸るのはまだ早い。今日の真の目的はカレーなのだ、と自分に言い聞かせた。
「そろそろいいかな」
というお母さんの一言のあと、ついに、ついに、カレーが運ばれてきた。何とも言えないカレーのいい香りがたちこめる。ジャガイモゴロゴロの黄色いカレーを想像していたがそうではなかった。欧風カレーを思わせる濃い色のソース。野菜はおそらく溶けてしまって原形を留めていないのだろう。かろうじて人参だけを確認することができる。肉は……高級なブロック肉ではなく牛バラ肉だ。アンリ・ジャイエのワインをテイスティングするような気分で、そっとスプーンを取り、一匙すくって口に運んだ。
おぉ、これが鈴木家のカレーなのか! 世界を制した男が世界一と太鼓判を押すカレーなのか!
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| 見た目はシンプルだが、辛すぎず甘すぎず、絶妙なバランス。イチローが世界一と評する味だ。 |
決して辛くはない。甘すぎるわけでもない。市販のカレールウをベースにした普通の味付け。が、この普通の加減が絶妙なのである。普通の本質を突き詰めた末に辿り着いた究極の家カレー。スパイスの効いた本格的な欧風カレーの領域に入りそうで入らない寸止めの美学が、イチロー選手のバッティングスタイルにも似ているような気がする(喩えがちょっと強引でした、すみません)。
気がつけば、瞬く間に平らげ、二杯目をおかわりしていた。このカレーを鈴木家だけのものにしておくのはあまりにも惜しい。東京カレーラボで「期間限定・鈴木家のカレー祭り」をやりましょうと言ったら、お母さんはニッコリ笑った。
×月××日
今、日本で最も行きたいと思っていたレストラン、庄内平野の「アル・ケッチァーノ」に行く。すでに超有名店なのでこちらも構えて行ったら、拍子抜けする ほど店の敷居は低く、オーナーシェフの奥田さんは気さくで面白い人だった。そもそも店の外観やインテリアに無駄なお金を使わず、潰れた喫茶店をほぼ居抜き で使っているところに好感が持てる。ここに集う客たちが作り出す「うまい顔」がこの店の最良のインテリアなのである。
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| (上)今や超有名店となった「アル・ケッチァーノ」だが、建物は喫茶店をほぼ居抜きで使用。 (下)奥田政行シェフ。「グリーンシート」を設けるなど、地元の生産者、食材をとても大切にする。 |
シェフのお任せディナーは全16皿。その大半は塩とオリーブオイルで仕上げられ、ソースを使った料理が極端に少ない。たとえば、庄内湾であがったワラサ(ブリの手前)は厚切りにしてオリーブオイルと粗塩だけで味付けされているのだが、この塩が普通の塩ではなく、満月の夜、満潮の海水を汲み上げて作った塩だったりする。奥田さんは毎朝自ら市場に足を運んで魚を選ぶのだが、その時、海水も飲んでみるらしい。海を味見して、魚に味をつける……奥田さんの料理は一見シンプルだが、実に理論的で奥が深いのである。
「アル・ケッチァーノ」という店名はイタリア語ではなく、こんなにおいしい食材が庄内に「あったんだ」という方言らしい。奥田さんは地元の食材を大切にしている料理人だ。店内にグリーンシートという席を見つけた。これは店に食材を提供している生産者のための優先席。自分の作った野菜や獲った魚を、お客さんたちがどういう顔をして食べているか……それを生産者が見ることができるのである。ちなみにグリーンシートの隣には生ビールのサーバーがあり、生産者に限り自己申告して原価で飲めるらしい。
奥田さんは言った。
「食材は地球の声の翻訳者です。それをさらに人間に伝えるのが料理人の役目です」
料理を通して地球環境を考えるきっかけを与える……奥田さんのような料理人がもう少し増えると、日本の食文化はさらに豊かさを増すかもしれない。
| 「アル・ケッチァーノ」 | 山形県鶴岡市下山添一里塚83 | TEL.0235-78-7230 |
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