小山薫堂の一食入魂 [59]
“深夜の炭水化物祭り”をやらかし、数日で
2キロも太ってしまった。旨すぎるのも問題だ
- 人生の食事を無駄にしたくないと願う男の食の軌跡

センスのいい旅館の主人の顔を見て、ますますその旅館のファンになった。
いいものには直感的にビビッとくる“何か”があるようだ。
×月××日
某誌の編集長に昇格したK氏に夕食をご馳走する。「お祝いだから好きな店を選んでください」と言ったら、K氏は元麻布の「ボン・ピナール」を自ら予約した。何しろK氏は無類のフランス好きとして有名な男である。そのフランス通をして「パリのビストロに匹敵します」と太鼓判を押させるのだから、期待しないわけにはいかない。

- 「ボン・ピナール」の進藤夫妻(上)。パリで食べているかのようなまっすぐで正直な味のカスレに感動した(下)。
店に入った瞬間、「ここはうまい」と直感した。いい店は、入った瞬間に分かる。寿司屋にも似たカウンター席中心の店内。そこに並んで食べている客たちの背中から、“うまいオーラ”が溢れ出ているのだ。店のオーナーは、ソムリエの進藤さん。かつて「ラトリエ・ドゥ・ジョエル・ロブション」でシェフソムリエをつとめていた人物である。さすがにワインリストも上手にまとめてあり(ブルゴーニュが中心)、値段も非常に良心的だ。カウンターテーブルにワインセラーを埋め込み、ボトルを横一列にズラリと並べているディスプレイも楽しい。寿司屋でネタを眺めながら寿司をつまむかのごとく、色々なボトルを眺めながらワインを飲めるのだ。
厨房で鍋を振るのは、進藤さんの奥様。K氏はブーダン・ノワール、僕はカスレを注文した。なるほど、フランス通が絶賛する理由が分かる。小手先ではない、まっすぐで正直なフランスの家庭料理。パリのビストロにいる気分で食が進む。こういう店を僕は待っていた。
フランス人は、気軽に飲めるいいワインのことを「ボン・ピナール」と呼ぶらしい。まさにその店名が、この店の魅力を語り尽くしている。
×月××日
石川県の山代温泉で久しぶりに休む。1泊目は「あらや滔々庵(とうとうあん)」。2泊目は「べにや無何有(むかゆう)」。どちらもいい宿である。デザイン的にすぐれた宿が、心からくつろげる場所を提供してくれるとは限らないが、この2軒はそれを見事に両立させている。食事は上質でありながら華美過ぎず、サービスもちょうどいい。

- 山代温泉「あらや滔々庵」の18代目館主、永井隆幸さん。20代で旅館を引き継いで以来、常に改良を考えてきたという。
特にいい時間を過ごせたのが、「あらや滔々庵」の離れにあるバーラウンジ。明治初期、有栖川家が山代逗留の拠点としていた離れを改築したもので、「有栖川山荘」という名前がつけられている。築100年をこえる純然たる和の空間は間接照明によって照らされ、掘り炬燵式のカウンターがある。そこに居るほどに、漂う時間が体にゆっくりと沁みてくるのである。西洋式のバーとはひと味違う、ここでしか楽しめない時間だ。伝統を下敷きにしながら、新しい風を吹き込んでいる経営者のセンスがいいのだろう。と思っていたら、宿を発つ時、感じのよい青年が挨拶に現れた。それが「あらや滔々庵」の18代目館主、永井隆幸さんだった。聞けば、20代の頃に宿を引き継ぎ、改良を重ねているという。館主の顔つきを見て、ますますこの宿のファンになった。
×月××日
マンダリンオリエンタルホテルの「タパス・モラキュラーバー」のカウンター席を貸し切り、友人らと林真理子さんを囲んでの食事会。8800円で楽しめる「エル・ブジ」式料理は、あいかわらずエンターティメントとして素晴らしい。林さんにも喜んでいただいたものの、胃袋的にはまだ余裕があったので、赤坂の高級お好み食堂「燻」へと流れた。軽くつまむつもりが……スモークチーズ、新鮮なホタルイカの炭火焼きに始まり、トリュフとフォアグラのオムライス、仙台牛のビーフカレー、辛味大根のうどん……まさに深夜の炭水化物祭りである。

- 「燻」の“バジリコフォンデュ”。ニンニクとバジリコをたっぷり入れたオイルフォンデュで、罪なほどに旨かった。
マンダリンで費やした2時間半は、我々の前では壮大な前菜に過ぎなかった。やはり「燻」という店は気をつけなければいけない。いつもうま過ぎて、ついつい食べ過ぎてしまう。
と、反省したつもりが、その2日後、友人に誘われて再び「燻」。ヘルシーなものを、とリクエストしたら、バジリコフォンデュなるものが出て来た。つまりはニンニクとバジリコをたっぷり入れたオイルフォンデュで、野菜や魚を素揚げにしながら食べるのだ。これがまた、罪なほどにうまい。結局、この数日間のうちに2キロほど太ってしまった。頑張って2キロ痩せたら、また林さんを誘おう……。
×月××日
半年ぶりのニューヨーク出張。2泊のあいだに、街角のホットドッグ屋台からグランメゾンまで、色々な店を食べ歩く。ニューヨークの本当に素晴らしい店は、ファッショナブルでありながらうまい。その筆頭が「ジャン・ジョルジュ」である。パリの三ツ星シェフの料理以上に、彼の作るアジアンフレンチは東京という都市にフィットするのではないだろうか。
今、ニューヨークで最も話題の店と言えば、オープンしたばかりの「モリモト」である。森本正治さんが満を持して出したグランメゾン。安藤建築に飾られた店は何週間も先まで満席の状態が続いているらしい。ディナーの予約が取れなかったので地下のバーラウンジで飲みながら寿司をつまむことにした。

- ニューヨークの「モリモト」で誰かが寿司桶にシャンパンをこぼしてしまったが、シャンパン漬けのイクラは意外に旨い。
注文したのは、100ドルの寿司の盛り合わせ。量もなかなか、味もなかなか、100ドルにしては安い。とその時、事件は起こった。誰かが誤ってシャンパンを寿司桶の中にこぼしてしまったのだ。せっかくの寿司が、シャンパン漬けになってしまった。東京ならシャンパン漬けの寿司なんて食べる気にならないが、ニューヨークではそれも許せてしまう。食べているうちに、誰かが言った。
「このイクラ、うまいね!」
そう、確かにシャンパンに漬かったイクラが不思議とうまいのである。ふとした失敗から生まれたイクラのシャンパン漬け。みなさんもぜひ一度、お試しを!
×月××日

- 帰国の便で登場したスーパーチーズバーガー。飛行機の中で、この「一食入魂」の原稿を書きながら頬張った。
今、ニューヨークから東京に戻る機内でこの原稿を書いている。傍らにあるのは、スーパーチーズバーガーである。機内食でこれを出すとは、さすが全日空! 分かっていらっしゃる。機内で胃もたれするステーキなんて、食べたくないのである。
あまりに嬉しくなり、「一食入魂」の題字もキャビンアテンダントの比護真樹子さんに書いてもらいました。
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「ボン・ピナール」 東京都港区元麻布2-1-21 YSビル 地下1階 TEL03-5856-4151 「あらや滔々庵」 石川県加賀市山代温泉湯の曲輪 TEL0761-77-0010 「べにや無何有」 石川県加賀市山代温泉55-1-3 TEL0761-77-1340
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