築地のルーツは日本橋。
寿司屋に橋に、昔の面影がちらほら
日本橋の日本橋。町と橋の名前が同じで、あぁ、ややこしい。橋の下を流れるのは日本橋川。近くには西河岸橋や一石橋もあり、日本橋だけを橋とするのはためらうが、ま、この界隈で橋といえば日本橋だろう。
この橋のたもと、山本海苔の看板がある側に、注目あれ。ホラ、あるでしょ、石像が。龍宮城の乙姫さまの像ですよ。これぞ、昭和29年に完成した魚河岸発祥の地を記す記念碑。乙姫像の背後に広がる一帯が、かつて魚河岸があった場所である。
"鼻の上下臍≪へそ≫の下"
築地市場の古老いわく、江戸には日に千両落ちる場が、三つあったそうな。
「鼻の上は、目で歌舞伎だろ。下は口で、魚河岸。臍の下ったら、ヘヘヘ、吉原だね」
徳川幕府誕生のおり、将軍家御用の魚を採っていた漁師たちが、納入した魚の残りを町民にも売ることになり、日本橋のたもとに市が立った。やがて江戸繁栄とともに、天下の台所となっていったのだ。
生きのいい鯛やヒラメをのせた八丁櫓の押送船≪おしょくりぶね≫が船足を競う川面、一刻を争うように桟橋がわりの平田船に荷揚げする怒声、われさきにと魚に群がる客たち。橋の上で目を閉じると、そんな光景が浮かんでくる。
今や、橋の上には重く高速道路がのしかかり、ビルの谷間をいく川は暗く淀み、とうに命を失ったかに見える。
ここに魚河岸があったなんて……。
しかし、町は、かつての記憶をそうは簡単に捨てない、と私は思うのだ。先日も……。
室町仲通りのお寿司屋さんに入った。ホント、なんの気なしに。すると目に飛び込んできたのは、壁にかけたモノクロームの写真。〔明治40年頃の魚河岸〕と添えてある。
「うち、昔は河岸の中にあったんですよ」
つけ台の向こうから、声が返ってきた。
写真に写っていたのは、ズラリ並んだ寿司の屋台。ゾロリとマントを羽織った旦那衆が暖簾の前に群がり、その横を、筒袖に高下駄姿の小僧さんが歩いている。
フフ、田山花袋してる、この小僧さん。
大文豪の花袋さん、少年時代のいっときは京橋の本屋で小僧をしており、長じて『日本橋附近』という随筆で、その思い出を綴っている。そこで、白状してんですね、自分が小僧をしくじったのは、橋のたもとに並んだ屋台で、ありもしない銭を使い果たしたのが原因の一つだと。「小僧相手に安ずしを握っては並べ握っては並べていたさまをはっきり想い起こす」と、他人ごとのような描写もあるが、小僧とは、他ならぬご本人だったのでは。
されば、写真の小僧さん、寄ろうか寄るまいか、チラチラ暖簾を眺めながら歩いてるとこじゃなかろうか。
魚河岸に、今も昔も寿司はつきもの。ここにも、きちんと記憶は残っていた。
いやいや、この室町界隈は、河岸の面影が色濃く残る場所。仲通りを奥へ進めば、はんぺんの「神茂≪かんも≫」に佃煮の「鮒佐」。大通りの海苔の「山本」、かつぶしの「にんべん」と、江戸時代から続く海産物の老舗が多いことも、魚河岸とは無関係ではない。
そして日本橋川。私は、昨年の春、たまたまこの川を和船で上り下りした。江戸城の石垣が残る常磐橋から、一石橋、西河岸橋、日本橋の下をくぐり、常磐橋へとUターン、というささやかなものだったけど、下から見上げる日本橋の美しいこと。石組のアーチや獅子のレリーフがみごとで、船行くひとの視線もじゅうぶんに配慮したものだった。
しかし、それ以上に感動したのは、川を下っているはずなのに「櫓が重い」と、呟いた船頭さんの言葉。潮が満ちてきたのだ。
この地に魚河岸ができたのは、海が近いという地の利もあった。東京湾は、ずっと奥深くまで入り込んでいたのだ。そして今、とうに役割を忘れてしまった川なのに、潮の満ち干に反応して船足を鈍くしている。健気にもかつての記憶を蘇らせていたのだった。
- [今月の魚]

- 7月は、京都の祇園祭に、大阪の天神祭とハモが欠かせぬ祭が二つ。関西の余波を受け、築地市場もハモの相場が上がる。国産ものでは明石や淡路に代表される大阪湾、九州沿岸が産地だが、もちろん足りないから韓国、中国からも。「祭が一段落すりゃ、値も下がる」というのが河岸人の言葉だが、やはりその時季に食べたいってのが人情。落としハモ、もう食べましたか。
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日本橋魚河岸は、大正12年の関東大震災で壊滅状態となり、築地へと移った。日本橋が架けられたのは、諸説あるが、1603年、江戸幕府が開府してまもない頃。魚市が立ったのは、それから10年前後とされ、日本橋魚河岸は、実に300年以上続いた。










