その一見普通の中国料理店は客と調理法を相談し、
親子で楽しそうに料理をつくる素敵な店であった

 
 
人生の食事を無駄にしたくないと願う男の食の軌跡
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男は「パンが焼ける」という理由で新しいスタッフを採用した。
そして、実はロールパンしか焼けない彼女の、パン屋出店を
プロデュースするという新たな“野望”を抱いたのであった。
 
 
小山薫堂 = 文・写真パン子 = 題字
 
 

×月××日

 3月まで放送していたテレビ番組「トリセツ」の打ち上げを、大井町の中華料理店「萬来園」で開く。ここは番組のナビゲーターだった松任谷正隆さんが、外食嫌いながらも、最も気に入った料理店である。

 とにかく不思議な店だ。大井町の商店街にある、ごく普通の町の中華屋さん。ラーメン餃子セットが似合いそうな雰囲気が漂っている。カウンターのみの十数席。そのカウンターの中では、お父さん、お母さん、息子の3人が阿吽の呼吸で仕事をこなす。完全に家族経営の店である。

「萬来園」にメニューというものは存在しない。お父さんが“今日仕入れた食材”を口頭で伝えて、客と調理方法を相談しながら食べるものを決める、というシステムである。

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「萬来園」では父と息子が、仕入れた食材を客の要望に応じて楽しそうに料理していた。

「今日はいい帆立があるよ。これは塩でサッと炒めるだけが一番。あ、平貝もいいなぁ。塩だけでシンプルに炒めてもいいし、まこもだけとエリンギでさっと炒めて……、そうそうアサリもいいのがあるんだ。豆と合わせるのもいいし、赤い酒粕で……」という具合にお父さんは喋りまくる。その話を聞いて料理を想像しているだけでおなかがすいて来る。つまりこの店では、店主との会話が「胃袋のストレッチ運動」になっているのである。その効果あってか、気がついてみれば十数皿完食していることも珍しくない。

 そして何より、ここはカウンター内で働く親子3人の姿が目においしい。縦社会のピリピリとした一流料理店の厨房とは違い、実に楽しそうに父と息子が料理を作るのである。そして2人をサポートする母の優しさ。こういう環境で食べると、おいしいものがさらにおいしく感じられてしまう。

 壁にぶつかった料理人がここを訪ねるときっと元気になる……そんな気がした。

×月××日

 小さな放送作家事務所ながら、雇用希望のメールがちょくちょく届く。人員を増やす必要性を感じていないので、これまではお断りしてきたのだが、この春、久しぶりに一人採用した。しかもうちの事務所にとっては初の女性スタッフ。僕に採用を決心させたポイントはたった一つ、「パンが焼ける」ということだった。彼女の夢は、放送作家になることではなく、パン屋さんを開業することらしい。うちの事務所が面白そうだから、という理由だけで彼女は入社を希望し、おいしいパンを食べたい一心で僕は彼女を採用した。そして誰が提案するまでもなく、彼女には“パン子”というあだ名がついた。

 パン子が入社して早2カ月……毎朝、事務所のテーブルには焼き立てのクロワッサンが並ぶように……なるはずだったが、僕の思惑は大きくはずれた。僕が食べたかったのはクロワッサン、彼女が焼けるのはロールパン……と、期待と現実にズレがあったのだ。所詮は素人なのだがら当然だが、そこにプロのような高い完成度はない。かと言って、家庭で母親が作る手作りのパンとも違う。パン子のパンは、これまで味わったことのない、不思議な、それでいて癖になる味だった。言い方を変えれば、何かを感じる味だった。

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パン子作、ロールパン。可能性にかけてみたいと思わせる、不思議な魅力を感じる味なのだ。

 次第に僕の中で新たな野望が芽生え始めた。ジュリ・ソレールという音楽プロデューサーが、フェラン・アドリアという料理人の才能を開花させ、「エルブジ」というレストランの名を歴史に刻んだように、僕もパン子の才能を育み、パン子のパンを世に送り出したい!……と。

 というわけで気がつけば、パンを焼いてもらうどころか、東京じゅうのパンを買い集めてパン子に食べさせる、という日々が続いている。まずは経験が必要だ。全てのおいしいパンを経験した上で、彼女は自分のオリジナリティを追求していくべきだと思う。

 パン子のパン屋さん出店計画は、今、静かに進行してる。

×月××日

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阿曾シェフの料理はいつも遊び心にあふれている。銀座に出した新店「アルジェントASO」でも、ボンゴレ・ビアンコかと思いきや、貝の中にはキャビアがびっしり……という驚きのスパゲッティを出してくれた。

 僕が大好きなイタリアンシェフ、阿曾達治さんが銀座に「アルジェントASO」という新たな店舗を出した。本人もたぶんそう思っていると思うが、もはや阿曾さんの料理をイタリアンというカテゴリーで括るのは難しい。味そのものはもちろん、一皿、一皿がどこかしらお茶目で、サプライズ感に溢れているところに惹かれる。

 例えば、アサリのスパゲッティ。運ばれてきたときは、見た目にも地味なボンゴレ・ビアンコに過ぎないのだが、貝殻を開けてビックリ! キャビアが山盛り詰まっていて、キャビアとアサリのスパゲッティに変身するのである。

 勝手に命名するなら、阿曾さんの料理は、「アニバーサリー・キュイジーヌ」と言えるのではないだろうか。何かの記念日に阿曾さんの料理を味わい、その楽しさを心の中に記憶する……阿曾さんの料理にはそんな効用がある。僕にとっては、食のサンタクロースのような人だ。

×月××日

 虎ノ門のオフィス街のはずれに、「カマロン」という東京で一番好きなスペインバルがある。スペインで出会った料理と同じ感動を味わえるので、たぶんこういう店にこそ“本格的な”という形容詞がふさわしいと思う。「カマロン」の一番の欠点は、店が狭いせいもあって、なかなか予約が取れない、ということだった。

 その「カマロン」の支店「バル カマロン」がオープンした。

 しかも自分の仕事場から歩いて30秒のところにできたのだから、こんなに嬉しいことはない。早速、スタッフを連れて一杯ひっかけに行った。

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事務所近くに開店した「バル カマロン」はタパス(小皿つまみ)でシェリーを一杯と、粋な使い方ができる、はずだった。

 開店は夕方の4時。“明るいうちから飲む”という罪悪感が妙に嬉しい。10坪ほどの狭い店内は、テーブル席もあるものの、本場スペイン同様に立ち飲みが基本となる。こういう店では長居することなく、1、2杯サッとあおって仕事に戻るのが粋な男というものだ。

 スペイン風オムレツをつまみにして、1杯400円のシェリー酒を飲む……う、うまい。トリッパのトマト煮込みをつまみにして、シェリー酒をもう1杯だけおかわり……う、これまたたまらなくうまい。イベリコ豚のローストをつまみにして赤ワインを1杯……困るくらいうまい。

 パン子が「このあとの原稿書きは大丈夫ですか?」と釘を刺すものの、もはや男どもの暴走は止められない。事務所の男性陣はすっかり宴会モードとなり、立ち飲み屋での粋な振る舞いは台無しになった。

 いい店が仕事場の目の前にできたのは嬉しくもあり、心配でもある。


「萬来園」 東京都品川区東大井5-6-8 TEL03-3450-5667
「アルジェントASO」 東京都中央区銀座3-3-1 ZOE銀座8階 TEL03-5524-1270
「バル カマロン」 東京都港区虎ノ門5-8-11 TEL03-3432-8804
 
 
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