江戸っ子が誇る江戸前の魚。
減ったとはいえ再生への動きも

 
 
福地享子 = 文坂木浩子 = イラスト
 
 

 築地市場で働き始めたころ、「江戸前」という言葉が、とても新鮮だった。

「やっぱいいよ、江戸前のアナゴは。どうだい、ツラからして違うねぇ」

 年配の番頭さんが、なれた手つきでアナゴを裂きながら言えば、売り子たちもお客様を前に、江戸前ものを強調してみせる。

「江戸前のキス、入ったよ、江戸前だよ」

「そりゃ、小粒だよ、江戸前のあさりは。だけど、韓国産と比べてよ。味が濃いんだ」

「おっとこのアジ、江戸前だよ。ゼイゴを見てよ、金ピカ。いい餌、食ってるもん」

 東京に長いこと住みながら、海があることを感覚的に持てなかった私に、王様顔で東京湾の魚が並んでいることは、驚きだった。

 ハイ、今じゃ門前の小僧よろしく、江戸前ものが入荷すれば、うるさくすすめている私だが、いっぽうで、ハテ江戸前とは? なんぞという疑問が頭から離れない。

 おもしろいことに、江戸前のキャッチフレーズで、まず売り出したのはウナギだった。宝暦から天明年間(1751〜1789)にかけて蒲焼人気が高まるが、看板がわりの行灯に「江戸前蒲焼」と記すのは常套手段。店の主人が「うちのは旅ウナギじゃござんせん。江戸前で」と自慢すれば、客は客で「旅は好きだが、ウナギはべつ」と通ぶったり……。

 今の築地市場にも、よそからきた魚を「旅もの」と呼ぶ風習はわずかに残っているが、当時の旅ものに対する江戸前への思い入れは、そうとうなものだったらしい。

 そして、この宝暦から天明、江戸時代も後半にさしかかって、「江戸前」という言葉が浮上してくるのは、偶然ではないように思う。

 江戸時代なかば、近松門左衛門や井原西鶴などが登場し、元禄文化が花開くけれど、その発信地は上方だった。いや文学だけではない。諸事全般、新興都市の江戸は、千年の都を背にした上方の文化に頭が上がらなかった。

 しかし、時代も下ると、文化の中心は江戸へとシフトしていく。

 宝暦、天明の時代ともなれば、いやもう上方なにするものぞ、の気運バリバリ。超人気作家、山東京伝により「金の鯱(江戸城の天守閣の意味)にらんで、水道の水(玉川水道)で産湯を使い、吉原本多(イケメン風髪形)に髷を結い、本町通りの角屋敷を売ってでも吉原でお大尽遊び」なんて感じの江戸っ子像オリジナル版が登場したのもこの時期だった。

「江戸前」という言葉は、そんな時代だからこそ、もてはやされたのだ。江戸という新興都市が、上方コンプレックスから抜け出した時代の、あるいは地方の寄せ集めだった江戸住民が、江戸を故郷として自覚し、故郷自慢を豪語するようになった時代のキーワード、それが「江戸前」という言葉だと思うのだ。

 やがて「江戸前小魚」も江戸自慢の一つになり、天ぷらや寿司が広く流行。江戸前という言葉も、江戸を前にした海から東京湾一円を、そして天ぷら、寿司、蒲焼などの技法をも指す言葉となっていく。

 そして今……。

 魚屋からみると、やはり東京湾の魚が気になるのだが、現状は厳しい。年間の水揚げ高は約2万t。昭和30年代は14万tというのだから、いかに減少したかがわかる。

 しかし、この春は久しぶりの豊漁となった江戸前のミル貝や鳥貝に市場はわいた。私もミル貝の大きさに目を見張り、殻から取り出したばかりの鳥貝の磯の香りに酔ったものだ。

 そんなおりもおり、水産庁が中心になって「江戸前再生」に動きだした。コンクリートで護岸し、巨大な鉄の橋を築き、未来に向けて突っ走る東京湾を、魚屋の視点で見直すプロジェクトだ。水産庁の話では、東京湾は、実は生産性の高い海なのだという。東京都民のはしくれとしてできることといったら、海を汚す生活排水を少しでも減らすことだろうか。洗剤の使用を半分に減らす工夫をしながら、江戸前自慢がもっともっとできる海が戻ってくることを願っている。

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[今月の魚]
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このところサンマ、サンマの日々。今年の初入荷はいつもより早かったし、初値も安かったことから、出足好調なのだ。流通が発達したおかげで、今は生食できるのが特徴。寿司屋の旦那とみれば「半身で3カンはいけますよ」。シェフと見たら「カルパッチョ最高!」なぞとわめき散らしております。かつては浜の漁師の特権だったサンマの刺し身、ご家庭でもどうぞ、お試しくださいな。

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アナゴ、マコガレイ、スズキ、サバ、キス、コハダ、ハゼ、シャコ、ノリ、アサリ、ミル貝、鳥貝などが

東京湾を代表する海産物。お寿司屋さんや天ぷら屋さんで出会える貴重で大切な江戸前ネタです。

 
 

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