特集/寿司、鮨、大好き!
日本海の極上ネタを絶妙の技で握る「菊寿し」
長野の山里に知られざる名店を訪ねる
出前もこなすごく普通の店、しかし、ひとたびカウンターで食べれば、愕然とする。
旬の滋味あふれるネタを人肌のしゃりと江戸前の技で握る見事なバランス。
驚くべき味と技、居心地の良さ。しかも安い。寿司屋の理想を信濃に見た。

- 鄙(ひな)にも稀な、とはまさにこのこと。主人、中野菊夫さんは、近海の上物をきっちりとした仕事で逸品に仕上げ、物静かでやわらかな物腰で心地よい安心感を与えてくれる。旨い寿司をおいしく食べられる、シンプルな喜びに感動する。
きらきらと光り輝くコハダに、人差し指が触れた瞬間、指先から真っ直ぐに旨さが走り、脳天を直撃した。旨い! 指が真っ先に味わっている。舌が指を急がせる。逸る気持ちを抑え、親指と中指で人肌のシャリをふわりと挟み、その味わいに確信を持って舌に乗せたコハダは晩秋の冷たい海を香らせる……筈、だった。
まるで狐に抓まれたようだった。そのコハダの姿と味わいは、思い描いていたのと、様子がまるで違っていて、思わず僕は首を傾げた。

- 長野とはいえ、実は日本海に近く、富山湾の新鮮な鯖や鯵などが入る。築地からの仕入れ、産地直送物もあり、信じられぬほど多彩なネタが揃う。
「味はシンコなんですよ」。無言の問い掛けに答えるかのように、「菊寿し」主人中野菊夫さんがにこやかに、だが誇らしげに言い切った。そうだ、シンコだ。
出世魚であるコハダは、大きくなるとコノシロと呼ばれ、鮨種には向かなくなるが、夏に獲れる親指ほどの小さなそれはシンコと呼ばれ、鮨食い垂涎の稀少なネタとなるのである。
晩秋はおろか、秋を遡って、夏真っ盛りの風が口の中に吹く。まさしく走りのシンコの味。見た目こそ粉うかたなきコハダなのだが、その軽やかな味わい、爽やかな香りは、今年はもう味わえないと諦めていたシンコなのだ。
またしてもやられてしまった。初めて「菊寿し」の暖簾を潜って以来、中野さんの鮨には何時も驚かされっ放しなのだ。
信州信濃、上越にほど近い三水村に凄い鮨屋がある、そう友人から聞かされたのは数年前のこと。半信半疑どころか、三信七疑ではあったが、鮨食いの性、自らの舌で確かめるべく、直ぐに店を訪ね、入口に積まれていた出前用の寿司桶、その中身を見た時には一信九疑に陥った。
ぼってりと大きく、凡庸な盛り合せ。ただ、そのネタが輝いていたから一縷の望みを繋いだものの、意気揚々ではなく、渋々カウンター席に座ったのだった。
しかし、整然と並べられたネタケース、その種類の豊富さと美しさに見とれているうち、やがてツケ台に見事な青緑釉の角皿が置かれ、艶っぽい平目の握りがすっとその上に乗った。その端整な眺めに思わず手が伸び、口に運んだ瞬間、頭の中が真っ白になった。
店の在り処は九州でもなければ、銀座でもない。間違いなく信州の山里なのである。なのにこの洗練を極めた鮨はどうだ。ふんわりと空気を含んだ人肌のシャリと、淡白な旨みをきりりと湛えた白身のネタが、絶妙のバランスを見せるこの小振りの鮨はどうだ。さっき見た出前の鮨は見間違いだったのか。と、更なる驚きが続く。近所のご婦人が持ち帰ろうとしているのは、いなり寿司。だが、次に僕の前に出されたのは四枚付けのシンコ。

- 上から輪島の鯖、新潟のアラ、富山の鯵。各地の魚介が揃うが、やはり日本海の新鮮な魚が秀逸。時には味わい深い脂がのった“根付き”の鯖などが入ることも。
ここに至って、ようやく謎が解けた。つまりは、中野さんは地元客の出前用と、鮨食いが集うカウンターでの鮨を握り分けているのである、と。
山里でも旨い鮨を、そんな願いを込めて父親が始めた店を、東京で修業を積んだ菊夫さんが受け継いだのは12年前。爾来、じわりじわりと今のスタイルに仕立て上げて来たのだ。

- 淡々と握っているようだが、人肌の温度のしゃりをふわりと、しかもネタに応じて微妙に硬さを握り分ける。ネタとしゃりの一体感が寿司の旨さであることを実感。
菊夫さんの修業先は「寿し屋の勘八」。そこでの経験を生かしつつ、独自のスタイルを築き、尚且つ先代から愛され続けて来た地元客をも軽んじることなく、その好みに応じて握り分け、今日の「菊寿し」へと、形を整えて来た。
JR長野駅から信越本線で北へ、ローカル列車に揺られること20分。辿り着いた牟礼駅はまさしく鄙の里。ここから歩いて数分で、至福のカウンターが待っているとは、幾度通っても信じ難い。知人友人を連れてこの道を歩き、その表情の変化を窺うのが、僕の密かな楽しみである。多くは、まさかこんな場所でまともな江戸前握りが食べられる筈がないと不満気に歩を進め、その後、カウンター席に着き、驚愕の表情で食べ始める。その落差に僕は、してやったりとニヤリ。
秀逸なネタの数々、酒器は
対馬の名作。ただものではない!

- 中野さんはカウンターの客の注文に応じつつ、出前の握りもこなす。仕込みから握りまで、ほぼ一人で賄うが、その所作には微塵のよどみもなく、握りの精度が崩れることもない。惚れ惚れするような動きだ。
冒頭に書いたシンコのようなコハダは、この日の白眉だったが、それだけではない、優れて豊富なネタは止まる事を知らない。ねっとりと旨みを秘めながらも、さらりとした後口のアラは、すうーっと胃に納まる。脂の乗りを諌めるかのように軽く焼き霜にしたキンメダイは、舌先に晩い秋を滑らせる。走りの煮ハマ、名残の蒸アワビは実に丁寧な下拵え。シャリの量がネタに的確に添うのも見事。食べながら幾度も唸ってしまうのはいつものことだ。ビールを冷酒に替える。片口から注ぐ盃は対馬の巨匠、小林東五作。やはりこの鮨屋、ただものではない。
さて、この「菊寿し」。何故に、今日の、鄙にも稀な名店と成り得たか。無論、偏に店主の志の高さ、仕事の確かさ故ではあるが、店の場所、立地条件も大きな要素になっている。
長野県三水村というと如何にも山奥のように思えるが、海は存外近く、高速道を使えば30分と掛らず日本海上越の港町直江津に辿り着ける。この日食べたアラ、アジ、サバは日本海の恵みである。或いは、同じく高速道を使えば、築地まで3時間。都内の渋滞を考えると、日本列島の、ちょうど真ん中に位置し、近くにインターチェンジのある立地は日本中から新鮮な魚を入手するのに極めて有利な条件なのだ。
ぷちぷち弾けるイクラは青森から、蕩けるアナゴは羽田から、古式ゆかしき印籠詰めにされたアカイカは萩から、と、まるで日本列島を食べるかのような鮨に遠くグリーンランドのマグロも加わり、中野さんは世界中の海を握る。
更には、牟礼の直ぐ近く、黒姫、野尻は古くからの別荘地。首都圏からの別荘族が多く通い、彼ら口の肥えた客達に愛され、鍛えられて来たのも、中野さんには大きな励みになったに違いない。

- トラックが行き交う国道18号に面している。目立たぬ構えだが、中では絶品の寿司が待っている。
菊寿し
TEL.026-253-2258
長野県上水内郡三水村普光寺925
[営]11:30〜14:00、17:00〜21:00
[休]月曜 [カード]不可
●握りはおまかせで一通り食べて5000〜6000円。おきまりは握り900円〜。酒は吉乃川の極上300ml・700円など。さわらの西京焼き、煮イカ、タコ唐揚げなど本日の酒肴もある。予約したほうがいい。
●JR信越本線牟礼駅より徒歩8分。
鮨を食べる楽しみ。その醍醐味はやはりカウンターにある。職人が握った鮨を、間髪を入れず口に放り込む至福の味わいは何ものにも替え難い。だが、銀座に代表される江戸前鮨の名店では、かなりの緊張を強いられるのもまた事実。心底寛いで食べるのには相応の場数を踏まねばならないのも確か。或いはその価格に対する不安も少なくない。とは言え、気楽さだけを売り物にする凡庸な店では、舌を巻くような鮨には中々出会えない。
「菊寿し」。これほどに極めた鮨を、心安らかに堪能出来る店を、僕は他に知らない。旬を極め、各地から選び抜いたネタに、江戸前の技法を忠実に施す。凛とした姿に凝縮した旨さを秘めた鮨。しかしその店の空気は、緊張とは全く無縁の市井の鮨屋。初心者から熟達まで、全ての鮨好きに奨める所以である。
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