特集/実りの「和菓子」
埼玉県熊谷に、懐かしい地方菓子の傑作あり
「五家宝」は、きな粉が香る郷土の宝
埼玉県の熊谷や加須で古くからつくられ、東京などでも親しまれてきた
庶民的でおいしい菓子です。その名品を今に伝えてくれる老舗を
熊谷に訪ねて、その魅力を探ってきました。

- 直径2cm弱にのばし終えた「五家宝」は、1本ずつ重ねて土手をつくり、中華包丁のような大きな羊羹包丁で、ひと息に5.5cmの長さに切る。1日何と2万個もつくるそうだ。
「ほらほら、きな粉がこぼれているでしょ。ちゃんとお皿に受けて!」
「五家宝」を食べるたびに、母に注意されたのも、今は懐かしい思い出。昭和30年代前半は、おやつの常連でもあった。ちなみに私は大阪生まれ。何とも鄙びたこの菓子が、埼玉・熊谷名物と知ったのは、ずっと後になってのことである。
長じて、そうしょっちゅうではないが時折この菓子を口にするたびに、「あ〜、懐かしい味!」と同じ言葉が出る。男女を問わず友人知人に尋ねても、必ず「あ〜、あの懐かしい味がするお菓子」と、同じ答えが返ってくる。
ぱりっと割れそうな外観なのに、歯を当てればちょっと頼りないような、ふわっと柔らかな食感で難なく噛み切れる。
まず口中を満たす風味は、きな粉。そして全体にしんなりしているのに、ほろっ、さくっとした歯ざわりもあり。これはもち米である。
私には、これさえあれば心穏やかになる“精神安定剤”的なものがいくつかある。たとえば食事関係なら、豆腐と油揚げ。菓子の場合は「五家宝」だ。
食事をする暇もなく出かけるときは、2〜3本つまめば一時の空腹の虫おさえに。また、バッグにしのばせておけば、無性にお腹がすいたときにこっそりひと齧り。まあ、昔風カロリーメイトと言えばいいだろうか。
が、何といってもお気に入りは、お風呂にも入り、明日の準備も終え、後は眠るだけという頃に、温めた牛乳と一緒に食べるとき。心落ち着く時間が静に流れ、しみじみうれしくなる。強烈なインパクトで圧倒するのではなく、何百年と祖先たちが親しんできた、きな粉の風味と控えめな甘さが心に響くのだろう。これが「五家宝」の真骨頂だと思う。
五家宝の材料は、
きな粉ともち米と蜜だけ
この菓子は、一体どのような工程でつくられるのだろう。ということで、熊谷市の「紅葉屋(もみじや)本店」に見学に出かけた。創業は江戸時代、明和2(1765)年の老舗である。

- 腰を据え、肩、腕、手首全体を使って「のし板」をリズミカルに動かし、均等にのばしていく。板は秋田杉。各自のクセに合わせて、一枚ずつ仕上げたもの。
建物に入った途端、心身を優しく慰撫するような、きな粉の香りが漂っていてうれしくなる。にこにこ顔の私たちはお気楽だが、工場内では30人近い人たちが、黙々と無駄な動きもなく「五家宝」づくりに励んでいる。
簡単につくり方を紹介しよう。
材料は、もち米ときな粉と蜜(水、砂糖、水飴)。添加物などは一切使わない。もち米は一晩水につけてから蒸し、搗いて餅にし、それを薄くのばして2mm角に切り、釜で焦がさないようにふっくら煎り上げる。ちょうどポン菓子のポンのようにしっかり膨らんでいる。そして蜜とからめて“種”の出来上がり。種を包む皮は“着せ皮”といい、これはきな粉と蜜を合わせたしっとりしたもの。
まず種をラグビーボールくらいの大きさにまとめ、のばした着せ皮ですっぽり包み込む。そしてのし板で直径2cm弱まで、着せ皮は1mmほどの厚さになるよう、時折きな粉をふりかけながら細い棒状に伸ばす。その後5.5cmの寸法に切り、たっぷりきな粉をかけて一晩置いて味を落ち着かせる。そして包装して出荷、というのが全工程だ。
出来たての“種”は、小粒の真珠のような輝きを見せている。乱暴に横に割っても、縦に割いてもこの真珠は潰れない。が、歯を当てるとシャリッ、ほろっと崩れる。

- 煎ったもち米と煮た蜜を木桶に取り、団扇で扇ぎながら木杓子で混ぜ、ラグビーボールぐらいにまとめ、きな粉と蜜を混ぜた着せ皮で包む。
50年近くつくり続けている鈴木英司さんは、「保存と腹持ちのこともあって、昔はもっと硬くて大きかったんですがね。最近の若い人たちは顎が弱くなり、硬いものが苦手。食も細くなったでしょ。やはり時代に合わせているんですよ」と言う。甘さも随分控えめになったそうだ。
特筆したいことは、同社はきな粉も自家製。大豆を煎り、そして挽く。
「市販のものもありますが、やはり風味は時間が大きく影響します。焙煎したて、挽きたてでないと」と、14代目の下田智彦さんは語る。
そしてまた、大豆やもち米の焙煎機や着せ皮のこね機、包装こそ機械化されているとはいえ、ほとんどが人の手による技が必要とされる、手間暇のかかる菓子であると、見学して初めて知た。
五家宝の歴史は
江戸中期以降に始まる
「五家宝」はいつの頃からつくられたのだろう?
名が見えるのは、江戸後期の狂歌、洒落本の作家である大田南畝(蜀山人)の随筆『奴師労之(やっこだこ)』。安永期(1772〜81年)に、田沼意次を登用した十代将軍・家治の日光参りに随行した際、道中に「五荷棒」という菓子があったと、記しているという。これが一番古い文献だといわれている。
誕生の地やつくられた経緯は、常陸国五霞村(現・茨城県五霞町)、上州甘楽郡五箇村(現・群馬県千代田町)、武蔵国不動岡(現・埼玉県加須市)、そして水戸の銘菓「吉原殿中」をまねて熊谷でつくられたなど、数多くの説がある。ごく限られた資料の中でわかることは、誕生は江戸中期以降、そして誕生の地は関東以北だ。

- 出来たてほやほやの「五家宝」。細巻は羽根のように軽く、食感もふわふわと軽い。取材班全員、たちまち4〜5本を食す。
また、名の由来もさまざま。地名もあれば、当時は貴重品だったもち米や砂糖をふんだんに使えるはずもなく、“五穀”を使ったからとか、五穀豊穣を願ってとか。とにかく「五」の数字が重要なキーワードの役目を果たしているようだ。「五」といえば、京都とお江戸日本橋をつなぐ主要街道の中山道六十九宿のうちの一つだった熊谷宿には、別のエピソードが残されている。この街道を通る松平、上杉、伊達、保科、前田の“五人”の大名に献上したというものだ。
まったくの余談だが、熊谷出身の有名人といえば、一ノ谷の合戦で平敦盛を討ち取った熊谷次郎直実。そして書道具や香、和紙関係の老舗「鳩居堂」は、直実から数えて二十数代後の後裔が開いた。「五家宝」が、現在のような形と材料を使うようになったのは、そして「五家宝」という字になったのは、明治以降というのが定説らしい。由来などどうもわからないことが多い菓子で、「紅葉屋」さんで真偽がわかるかも知れないと期待したのだが……。
「実はわが家にも資料というものは、一切残されていません。というのも、熊谷は第二次大戦の終戦前日、8月14日に空襲で何もかも焼けてしまい、ほぼ壊滅状態になったからです」と、下田さんは無念そうに語る。
原材料をよくすることで
味を磨き上げる
「五家宝」は、江戸時代には上菓子に対して駄菓子であったろうと推測される。しかし明治以降になって、もち米や砂糖が使えるようになり、駄菓子から熊谷「銘菓」といわれるまでになった。
今は21世紀、大きさや甘さではなく、まだまだ改良の余地はあるのだろうか。
同社でも、次代にも残すために新しい素材を加えて、新しい味をつくる試みにも積極的に挑戦したという。が、もち米ときな粉と砂糖、水飴、水を原料にするに勝るものはない、と確信した。
「新しい素材を追い求めるのではなく、現在の材料でより品質のいい、より安全なものを選択することが、今を生きる私たちの役目だと思います」
「五家宝」ファンにとっては、心底うれしい言葉である。

- 紅葉屋本店
TEL.048-521-0376
埼玉県熊谷市佐谷田3247
[営] 8:00〜17:00
[休] 土曜、日曜、祝日
●取り寄せ可。個別包装した箱詰めの五家宝(細巻)15本入り500円、24本800円、30本1500円など。太巻6本と細巻36本の詰め合わせ2500円などもある。砂糖は和三盆、貴重な青大豆を使った「極上五家宝 松籟」は一口サイズ、36個入り750円〜。全国の百貨店でも取り扱いがある。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~momijiya/









